読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (戦場で盗んだ一枚のハガキ)

「以上二章にわたって大分くわしく「里心」について記したが、「百人斬り競争」という問題で、二少尉がなぜ浅海特派員の誘いに応ずる気になったかという点で、今の人にもっともわかりにくいのが、通信の手段を奪われ、たとえ手段が入手できても、書きたいことも書けない状態におかれた人間の異常な心理状態だと思ったからである。


盗み取った一枚のハガキをもって、何もかも放り出して、あてもなく夜のバギオをほっつきまわったあの時の自分の心理状態、それは、戦後の人にはもう全く理解できないことであろう。当時を経験した人でも、私のように、それが一因で命も失いかねないという骨の髄にまで達するような苦い経験でもないと、そういう時の心理状態は正確には思い出せないものである。」



「マスコミが華やかに活動していることは、言論の自由とは関係はない。戦争中、NHKも大新聞も華やかに活動していた。要は、一個人が何ら圧迫もうけず自主規制もせず、自分の考えていることを全然自らごまかすことなく率直にそのまま言えるかどうか、にかかっているであろう。その権利を制限する資格はだれにもないはずである。


だがこのことは、当時のいわば「その点では何の特権もなかった庶民」に等しい者でないと理解できないであろう。どのように時代が変わろうと、時の権力を批判するような顔をしつつ実質的にはその権力と密着し、常に何らかの大義名分をかかげては人々の思考と言論を規制し続け、また規制しつづけようとしてきた人々、いわば常に「規制する側」に立ってきた人々には理解できるわけがないと私は思う。


彼らのいう「言論の自由」とは、「自分たちの言論による一方的規制力の無制限な自由」ということにすぎないであろう。それは、「言論の自由」ではあるまい。そういう人たちが、「毛語録」一色で塗りつぶされた中国に羨望と嘆賞の言葉を発したとて、私にはそれは少しも不思議ではない。


その人たちは、昔もそうであったし、今もそうであるにすぎないから。


しかしたとえいかなることがあっても、「何かが怖くて口がきけない」状態は絶対に招来してはなるまい。ひとたびそうなれば、やがては「一枚のハガキ」「一片の創作記事」のため、命を落すか落としかねない事態に必ずなるのだから。


そしてその状態は大昔のことではなく、近々、三十数年前のことなのである。」


〇 (※この本は、昭和50年11月に文芸春秋社から発行されています。)
言論の自由」の問題は規制される側の人にしかわからないだろう、ということを、
今、まさに現実のこととして実感しています。

安倍政権は年金を株につぎ込み株価を操作しています。
それは、浜矩子さんの指摘(=「どアホノミクスの断末魔」)でも、はっきりしています。引用します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「・「統合政府部門による財政と金融の一体運営」は断じて受け入れ難い。無責任財政は、もとよりそれ自体として国民に対する国家の背任行為だ。それに加えて、このやり方は国家財政が国民の前から消えてなくなっていくことにつながる。我々が関知できないところで、政府が好きなだけ好きな狙いのためのカネを使う。このような民主主義破壊的行為を容認するわけにはいかない。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

株に投資している一部の金持ちは、おそらく安倍政権のおかげで、
イイ思いをしているのでしょう。

そのイイ思いをしている人々の中に、大新聞やNHK等のマスコミ関係者も含まれる時、国策として「株価を下げない」という政策がとられても不思議はありません。


そして、その政策の実行部隊の、安倍氏や、その取り巻きがどれほどインチキで破廉恥な人々であっても、もう国の資産が人質にとられているようなものですから、その人たちを、降ろすことなど出来なくなるのだと思います。

今の株価操作には、出口戦略はない、と多くの人々が批判してきました。
始めてしまったものを、やめるわけにはいかないのが、今の
株価操作で、あとは、野となれ、山となれ、なのでしょう。

国の資産を人質にとってる安倍氏は、誰にもやめさせられない。
(そう考える時、なぜあれほど酷い安倍氏が降ろされないのか、辻褄が合います。
もちろん、これは、政治素人の私の想像にすぎませんが。)

原発問題と、憲法改正問題、両方チラつかせれば、国民は、反対運動にも
疲れ切る。(実際、みんな疲れ切っています。)

本来は第三の権力であるべき、マスコミが、第二の権力、国家権力と結びついて、無関心層が多い、第一の権力の国民を好きなように操作している、という形になっているのだと思います。