読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (日本刀神話の実態)


「まず、戦犯という問題が発生する以前に、二人がこの「百人斬り競争」について個人的に何を語ったかである。この点、向井少尉は時には粗暴ともいえる態度で「ノーコメント」で押し通したらしく、彼が直接に語ったと思われる言葉は、未亡人の次の言葉だけである(「諸君!」昭和四十七年八月号、鈴木明氏の「向井少尉はなぜ殺されたか」より)。

<…警察は(連合軍の呼び出しに応じないで)暗に逃亡をすすめたともいう。しかし、彼(向井少尉)は、
「僕は悪いことはしていないから、出頭します」
といった。
「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるのかもしれない。大丈夫だよ。連合軍の裁判は公平だから」
ともいったという。


彼女は、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは…?」と彼に聞いた。彼は、「あんなことは、ホラさ」と、事もなげにいった。「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと、


「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いてたんだから、そんなことを言い出したら、国中にホラ吹きでない人は一人もいなくなる_」と、真面目な顔をして、そういった_>」



「まずだれも異論がないことは、この証言が、浅海特派員が報じた「記事」の通りの「百人斬り競争」は、現実には存在しなかったことを本人が明確に証言しているということであろう。」


「すなわち野田少尉が「百人斬り競争」という記事は事実でなく虚報だと言ったのは、何も戦犯法廷ではじめて口にしたことではなく、実に記事が報ぜられて一年四カ月目にすでに否定しているのである。」


「前線には新聞は配送されない。従って二人は一体全体、何が書かれていたか、内地に帰ってみなければわからなかったのが実情であろう。向井少尉は半年後に新聞を見て「恥ずかしかった」と上申書に書いているが、


実際、前にも述べたが、この「恥ずかしかった」は、いろいろな面で、実に実感のこもった言葉と言うべきであろう。というのは、読者の中に「つまらんホラを吹きやがって」と思っている人間がいることを、彼自身、今よりもはるかに強く感じないわけにいかないからである。


だがしかし、人間はつくづく弱いものだと思う。定説とか定評とかが作られてしまうと、向井少尉のようにノー・コメントで押し通すか、野田少尉のように、何とか取り繕うか、のどちらかをせざるを得なくなる。



しかしそこにもし白兵戦の体験者がいたらすぐに言ったであろう。「……四、五人?本当に人を斬った人間はそういうあやふやな言い方はしない。野田少尉!四人か、五人か_五人だというなら貴官にうかがいたい、五人目に軍刀がどういう状態になったかを」_彼はおそらく答えられまい。


というのは、彼がしている「とりつくろい」は、戦場での伝聞であっても、おそらく彼の体験ではないからである。そして戦場での伝聞は前にも述べたが恐ろしく誇大になるのである。


なぜそういえるか。理由は簡単である。私は体験者を知っており、そして私にも「斬った」体験があるからである_といっても即断しないでほしい、後述するような理由があったことで、私は別に残虐犯人というわけではない。(略)


従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、まず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないものである。(略)


私は実際に人を斬殺した人間、人を刺殺した人間を相当数多く知っている。そしてそういう人たちがそのことに触れた瞬間に示す一種独特な反応_本当の体験者はその瞬間に彼の脳裏にある光景が浮かぶから、否応なしに、ある種の反応を示す_その反応を思い起こすと、「本当に斬ったヤツは絶対に自分から斬ったなどとは言わないものだ」という言葉をやはり事実だと思わないわけにいかない。」



「これでみると、日本刀の欠陥は、私のもっていた軍刀が例外だったのでなく、全日本刀に共通する限界もしくは欠陥であったと思われる。そこで、この三人の方のお手紙の一部をまず台湾人S氏(文芸春秋編集部あて)のから掲載させて頂こう。氏は次のように記されている。


<例の「百人斬り」の話についてですが、私は議論の当初から、あれは物理的に不可能だと思っていました。(略)


戦前の出版で「戦ふ日本刀」という本をかつて読んだことがあります。これは一人の刀鍛冶の従軍気で、前線で日本刀を修理して歩いた記録です。この中で、日本刀というものがいかに脆いものであるか、という強い印象を得たことを覚えております。


一人斬るとすぐに刃がこぼれ、折れ曲がったり、柄が外れたりするものらしいです。同封の切り抜きは去年の九月二十八日付朝日新聞のものですが、この中にも「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」という殺陣師の談話があります。」


「次に日本人S氏のお手紙を紹介する。氏は高名なジャーナリストで、次のように記されている。


<問題の百人斬りなどは、小生は刀の性能の上から、まず大疑問を感じており、新聞記者の舞文曲筆、まずは立川文庫の講談と受け取っていました。(略)


小生は生前しばしばお目にかかり、戦場における日本刀について、いろいろお話を伺いましたが、大根や西瓜を斬るようにそうスカスカいくらでも斬れるものではない。案外に実戦における日本刀は生命が短いということを聞いたことがあります。(略)


折れず曲がらずは銘刀の第一条件ではありますが、これがよく折れ、よく曲がるのであります。その時成瀬さんのような修理班が手近におればよいが、研ぎ師がそういるわけではなし、一旦破損した刀を戦場で修理し得た人は、まず地獄で仏に会った稀有の後援者と言うべきでしょう。


多くの人が帯刀を破損せずに所持していたということは、即ちそれを使用しなかったからではないでしょうか?>



事実、氏の言われる通りなのである。軍刀は確か従軍記者もぶら下げていた。おそらくみな、一度も使用せずそのままお持ち帰りのことであろう。」


「次に中国人R氏のお手紙を紹介する。氏のお手紙は大分長く、中国の刀剣の説明があり、ついで日本刀に言及し、成瀬関次氏の著作に言及しておられるので、この「百人斬り競争」という記事に直接関係のある部分だけを摘記要約させて頂こう。



氏はまず「百人斬り競争」を「事実」だと強弁した者に対して憤慨しておられる。私は前に、なぜ姜氏の話では、この「百人斬り競争」が非戦闘員殺害に改変されているかを考えねばいけないと書いたが、その時から気掛かりであったことが、事実になって現れたのである。



こういう点、日本のジャーナリストの独りよがりの独善さは、戦争中同様、全く救いようがないように思われる。この「百人斬り競争」を「事実」だと強弁することが「日中友好の道」だなどと考えているものがいるなら、大変なことであろう。


対象が非戦闘員ならいざ知らず、軍隊で、しかも戦闘行為として記されているのである。従って「殺人ゲーム」を事実だと強弁することと、「百人斬り競争」を事実だと強弁することは、全く違うことなのである。


だが本多記者にはこのことが全く理解できないらしい。しかし浅海特派員は従軍記者の経験があるだけあって、「週刊新潮」所載の氏の所感の背後には、はっきりとこの配慮がある。(略)


「百人斬り競争」という記事自体が、言うまでもなく、徹底した中国軍および中国人蔑視の記事、当時の言葉でいえば「チャンコロ記事」すなわち中国人を人間とみなしていない創作記事であって、それを戦後三十年近くたった今なお「事実」だなどと強弁すれば、中国人、特に抗日戦を戦い抜いた老兵たちが激怒するのが当然であろう_中国人の間で、なぜこれが、知らず知らずのうちに「非戦闘員殺害」に改変されていったか、もう一度冷静に考えれば、このことは誰にでもわかるはずである。


特に「諸君!」にのった本多勝一氏の文章の一部などは、もし中国の軍人の目にとまれば、一悶着ではすまない部分があると思われる。


軍人には軍人独特の感情がある。この感情は確かに国によって違うが、しかし共通した一面がある。戦後日本には軍人はいなくなったから、あの一種独特の感情がだれにもわからなくなったことは、確かに喜ばしいことであり、「軍人=病人」論者にとっては大歓迎といいたいことである。


しかしそれだからといって、私は、外国の軍人、特に中国のように「戦勝国」をもって自認している国の軍人の感情を、本多勝一氏のように土足にかけていいとは思っていない。(略)



そこで同氏のお手紙から得た「私の」結論_あくまでも私の結論_だけを簡単にいえば、この記事は、少なくとも中国の軍人に対しては、「戦争中このような創作記事を掲げ、祖国のため徹底的に戦われた勇敢な貴国の抗日戦の勇士を辱めたことを謝罪します」と新聞社自らがいうべき記事であっても、彼らの目の前で「断固たる事実です」と言うべき記事ではないのである。(略)



もちろん事実だと信ずるなら、彼らが激怒しようとしまいと事実だと断言して良い。私には、彼らに媚びて事実まで取り消せという気は全くない。ただ虚報を出して日本人を誤らせ、その虚報を事実だと強弁して中国人を怒らすなら、世にこれ以上の愚行はないと思うだけである。」



「R氏は中国の大刀_俗にいう青竜刀_と日本刀との比較をしておられる。日本刀はかつてずいぶん中国に輸出された。しかしそれらはほとんど姿を消した。(略)


しかし事実は_と氏は言われる_日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまうものであって、その最弱点は、特にその柄である_
日本に多くの日本刀が残っていたのは、結局、徳川期以降これを戦場の兵器として使用することなく、単に、武士の身分を示す一種の「儀礼仗」となっていたからにすぎず、実践に使われ続けたなら、いわばもっともっと実用品としての改良が為されたはずだといわれる。


そういった改良は皆無で、ただひたすら「美術工芸品」としての完成へと向かっていったのは、青貝ちらしの火縄銃と同じ行き方であろう、と氏は記されている。


一方中国の大刀(青竜刀)は、その湾曲度は刃物として最も合理的で、かつ、幅広で肉うすに作られ、従って最も鋭利でかつ折れず曲がらず、さらに先端に重みがかかるように設計されている。


この形態が戦闘において最も実用的であることは、議論の余地がない。一方、柄は、刀身と別でなく、ただここを円筒形の握りにかえてあるだけで、全部が一単体の刀身という構造になっている。こういう形態になったのは、一に実用のためであったと氏は言われる。(略)



いつもながら同じことが繰り返される_専門家のデータは無視され、何やらわけのわからぬ全く無根拠の一方的強弁にすべての人が唱和していくという…。


なぜそうなるのであろう。不思議である。何しろ、成瀬氏がどんなに日本刀の欠陥を主張しても、結局は、終戦まで何一つ改善されなかったのは事実なのだから。その上、そういう著書の存在すら日本人の方が忘れ、今でも「百人斬り」が事実で通るのだから…。」


〇 本当に、なぜそうなるのでしょうか…。多くの経済学者が警告したやり方を押し通し、今も、多くの地質学者が問題視している原発を、続けようとしている。

本当に、なぜそうなるのか…。しかも、「すべての人が唱和していく」のが、
どうしてなのか、本当に不思議です。