読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (日本刀神話の実態)

「しかし現実の戦場で刀剣を振るうということは、実は、昔から極めてまれな事でなかったかと思う。というのは、団体戦闘における近接戦の主力兵器は、洋の東西を問わず、昔から実際は槍であって刀でない。
 
 
槍は銃槍、銃剣と変化し、また、ある特別の銃槍は、銃の先に槍の穂先がつくというより、槍の柄から弾丸が飛び出す態のものであったらしいが、結局この形態の近接戦兵器は、第二次大戦まで生き残ったわけであった。(略)
 
 
従って相当昔から、刀は、実質的には指揮官の「指揮仗兼護身用武器」に変化していたことが実態であろう。(略)
 
 
その効力が二メートルに及ばない刀は、すでに実戦の兵器ではなかった。それは、劇画・動画の中と新聞記者の妄想の中で活躍する兵器にすぎない。」
 
 
 
「だが、不思議なことに、この点だけでなく他のことでもいつもそうならない。そして何としまいには、戦闘機の搭乗員までが重い大きな日本刀型軍刀をもって機に乗ることになる。
 
 
これは一体なぜであろうか。おそらくあらゆる面で「成瀬関次氏のデータ」といったものを無視し、何かを_この場合なら「日本刀」を_絶対視して、この主張を一方的に言いまくると、それが通ってしまうという精神構造から来るのかも知れない。ある種の経済学者の主張などを聞いていると、私はいつも、何か日本刀の模造品を下げた将校を連想するのである。」
 
 
 
「というのは、前述のように、私は軍刀を使用して人体を切断した体験がある。しかし、三氏からお手紙をいただくまで、私は私の軍刀に生じた状態が一般的な欠陥とは思わず、日本刀とはなんとなくもっともっと立派なもので、私が体験したことは例外中の例外だと、戦後二十数年思い込んでいたからである。(略)
 
 
 
「氏はビルマの日本軍主力が壊滅したメクテラーの会戦の生き残りで、この本は「軍属」という立場から戦争を見た非常に面白い著作だが、同時に氏は刀剣の鑑定が趣味なのである。
 
 
 
氏は若い頃、木材で試し斬りをされたそうだが、その際、普通の日本刀は、刀に打撃をうけると鍔元から左肩に曲がるというお話である。これは私の体験と一致する。
 
 
そして曲がると柄と鍔がガタガタになる。これが「刃がかける」はるか以前に起るはずなのである。そして台湾人S氏の記憶に残っているのが、おそらく成瀬氏が指摘したこの最大の構造的欠陥なのである。」
 
 
 
「日本軍の将校は、軍装は全部私費でまかなうのが原則で、従って任官前に偕行社で、軍帽・軍服・長靴から軍刀までの全一式を購入するわけであった。昔は拳銃まで各人が購入したそうで、戦地の部隊でも古い将校は私物の拳銃をもっていた。(略)
 
 
総額はおぼえていないが、全部合計すると相当な金額だったように覆う。」
 
 
「第三に、R氏も指摘された構造上の欠陥である。日本刀もいろいろな面で評価すれば、確かに立派な鉄器であったえあろう。しかし構造的に見て、中国の大刀と果たしてどちらが合理的かと言われれば、確かに疑問を感ぜざるを得ない。
 
 
 
というのは、もっと極端な例をあげると、構造的には中国の大刀よりさらに徹底的に彎曲したもの、すなわち砲車についている円匙が、白兵戦では最も使いよい武器であることは、あくまでも事実だからである。
 
 
この円匙は普通のシャベルとは違って、長いまっすぐな木の柄の先に、小型で平たく分厚いスペードがついている。これをやすりで研ぎあげると実によく切れる。この丸い部分をまともに顔にでも受ければ、それこそ顔半分がざっくりとえぐり取られてしまうであろう。
 
 
 
人間、いざとなればみなやることは同じらしく、「西部戦線異状なし」でも、戦場ズレした兵士が、正規の武器を持たず、円匙と手榴弾をもって突撃する記述がある。
 
 
ジャングル戦でも、生き延びようと思えば、軍刀は捨てても、円匙と手榴弾を持っていた方がよい。
 
 
穴も掘れるし、武器にもなるし、ヤシの実もわれるし、ヤシの新芽もむけるし、木の根も掘れるし、水牛もさばけるし、フライパンにもなる。しかも絶対に故障は生じないから、修理師の必要もないし、また手入れの必要もないのである。
 
 
 
本当に「刀」というものを実用品として使っていた民族の「刀」の使い方は、どうも、こういった使い方ではなかったかと思う。」
 
 
 
 
「「百六の生血を吸った孫六を記者に示した」という記述が事実なら、浅海特派員も鈴木特派員も、その刀身を見たはずだ_見たというのなら、その状態を説明してほしい。本当に見たのなら、見た瞬間に、ある特徴を目にしたはずである。
 
 
私は断言して良い。この時点までに、浅海・向井・野田の三氏は、一度も白兵戦を体験したことがないだけでなく、白兵戦で使われた軍刀を見たことすらないと。
 
 
 
徳川時代になぜ「研ぎ師」というものが必要であったか、なぜ成瀬氏のような人が前線を回らねばならなかったか、理由は、ちょっと考えれば、小学生でもわかるはずだ。血とは一種の塩水なのである。(略)研ぎあげた刃物に塩水をつければどうなるか、説明の必要はあるまい。しかもそれがノリ状になって付着すると、拭いてもこれがなかなかとれない。(略)
 
 
 
二週間にわたって「百六の生血を吸った」ということは、この期間に、百六回ノリ状の塩水につけてはそれをなすりつけて乾かしつづけたということええ、そんなことをすれば、その刀身がどんな状態になるかは、説明しなくとも読者に想像がつくであろう。
 
 
全くバカげたことを平気で書き、またそれを平気で事実だと強弁できるものである。」
 
 
 
「これは東洋史の先生に聞いた話だが、ジンギス汗のモンゴル軍の軍隊検査の規定を見ると、その「必携品目」に砥石とやすりがあり、これを持っていないと厳罰に処せられたそうだが、刀や槍が、床の間や長押の飾りでなく、実戦での実用品なら、各人がそれを持つのが当然であって、「研ぎ師」というものが存在して、ひたすら美しく研ぎあげたこと自体が、実用品より美術品であった証拠かもしれない。」
 
 
 
「ところが戦後私は何気なく森鴎外の「堺事件」を読み、その中のある描写に至ったとき、「昔から、やはりみなこうなのだろうな」と思った。というのは、刀を使うことが本職であった武士ですら、本多氏が事実と強弁する「鉄兜もろとも唐竹割」どころか、骨を切断することさえ、なかなか出来ないのである。(略)
 
 
箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刀が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に挿し込んで、大網を掴んで引きだしつつ、フランス人を睨みつけた。
 
 
馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
馬場の二の太刀は頸椎を断って、かつと音がした。
箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。
此声は今までより大きく、三丁位響いたのである。(中略)
 
馬場は三度目にやうやう箕浦の首を墜とした。(略)」
 
 
「近代戦とは兵器の戦いだから、目標は「人」でなく「重火器」である。極端な例をれば、だれにでもわかることだが、戦艦は沈めればそれでよく、B29は落とせばそれで良いのであって、搭乗員の生死は、実は問題外なのである。
 
 
日本刀を背負って泳いで行って舷側をよじのぼって水兵一人斬ったところで近代戦では無意味だが、一方、艦底に爆薬を仕掛けてこれを沈めれば、その際、乗員の全部が無事に逃れて助かっても、大戦果となるわけである。
 
 
陸上の戦闘でも、原則は同じで、斬込隊が持って行くのは、われわれの場合は「フトン爆雷」という自殺兵器であった。(略)
 
 
これに「一式点火管」という点火器がついていて、その紐をひくと四秒で炸裂する。戦車の上にのせれば、その鋼板を完全に打ち抜く威力があった。炸裂までの四秒間に逃げて来れば助かるわけだが、これは実質的に不可能である。
 
 
従って自殺兵器にならざるを得ない。これをもって飛び込むのが斬込隊で、日本刀を振るって斬りかかるわけではない。(略)
 
 
軍隊には元来「殺せ」という命令はない_そして「ない」が故に、戦争ほど悲惨なものはないのである。あれだけ苦しい戦争を体験しながら、このことが、どうして理解できないのであろうか。」
 
 
〇「フトン爆雷」の斬込隊と「特攻隊」の差は、ほとんどない。何故、あれほど理不尽な「特攻隊」が行われたのか、と思っていたけれど、何から何まで理不尽なのが、日本軍の戦争だったのだ、とあらためて思います。