読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (白兵戦に適さない名刀)

「前号で成瀬関次氏の「戦ふ日本刀」についての三氏のお手紙を紹介したところ、小平市のH氏から、文芸春秋経由で、その本を一部お送り頂いた。(略)


それは「言論統制下の発言をどう読むか」という問題なのである。(略)
この本も同じように「日本刀を礼賛することによって日本刀を批判する」という言い方をしている。これは当時(昭和十五年)の日本の状況をよく示しており、私にはそれが非常に面白かった。」


「ここに記されているのが、前に述べた「斬る」と「叩く」の違いである。そしてこのことを氏は、実にくどいぐらい記している。それはとりもなおさず、戦場の実態は、当時でも、いくら「話しても無駄である」なのであり、通用するのは今も昔も常に「虚報」であったことの実証になるであろう。」


「ではなぜこういう言い方になるか。当時の軍人と今の新聞記者とはやや似た位置にあったと思われる。というのは今では「大記者」の記事を「フィクション」だなどと言えばそれこそ大変で、ガリ版刷りの脅迫状(?)までくるわけだが、当時は軍人が明言したことを「小説(フィクション)」だなどと言ったら、それこそ大変であった。


従って「宮本武蔵でも近藤勇でも」その「記録は絶対にない」あればフィクションだと氏は言っているのであって、この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではなないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。」


「次に、戦場における日本刀の損傷への言及も出てくる。
<面白いことは兵種、戦闘の難易、地形その他によって、刃の損傷に共通点のあることで、例えば文字通りに決戦した部隊の刀を手にしてみると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸のすり切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左へ曲がってゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり、


乗馬部隊は馬に煽られる為に刀が鞘ごと中央から曲り、一体にぐらつきが甚だしく、螺子の類は殆ど飛び散り、馬に踏まれたりなどする関係からか有るべからざる所に大きな刃こぼれや疵をつくってゐる。それが砲兵隊輜重隊になると、その上に車輪にはさまれて殆ど直角に曲がったりしてゐる>
まさにこの通りであったろう。


さらに刀剣鑑識家への次の批評がある。

<世の刀剣鑑識家の殆ど全部は、美術骨董品としての領域に居る人々である。さうした点でのその権威には無条件で屈服する。だが、それ等の人々が美術骨董的な鑑識眼だけを以て、軍人が命の綱とたのむ軍刀の適否を決定的に選定するということは、如何なものであらうか。(略)


これを言ったのである。自分は絶対に折れぬ事を保証した。日本刀はなかなか折れぬものである。二千振近いものの中に、折れは一振もなかった>

日本刀は折れるのではない、曲がるのである。その事実を知らないで「人を斬った」などという人間がいたら、ほらふきである。」


「自分の従軍中、たった一振の政宗を戦線で見た。所謂虎穴に入って虎子を見たものと、ひそかに喜んでゐる事の一つである。(略)

少尉はそれで正規軍の敵兵一人を斬った。半ば夢中で斬撃したので、切れ味はわからなかったさうであるが、最初の一撃で敵兵は殪れ、その時刀身が左方へぐつと曲った。それを如何ともする暇もなく、二人目の敵に切りつけたが、曲ってゐる為に手元が狂って遂に敵を逸した。


刃こぼれはなかったけれども、曲ったまま無理に鞘へ押し込んだところが、以後どうしても抜けないので、そのまま修理に出してきたのであった。(略)


その少尉は、「いざ白兵戦となると、特別に力を出さうと考へなくても、自然と恐ろしい力が手の内にこもるものと見え、刀などはさうした力の余力で曲がるものらしい。(略)
とにかく陣中で刀に曲がられては困る。いっそ刃こぼれがしても、曲って貰いたくない。」と語った>


これは文字通り体験者の言葉であって、何よりこまるのが必ずといってもよいほど、刀身が左かたに曲がるということなのである。」


「また氏は「一刀のもとに切り殺す」ほど鋭利な日本刀は実際はほとんど皆無で、斬ったつもりで前進したら斬られたはずの者が背後から起き上がって来た例をのべ、昔の武士が果し合いのとき必ず「トドメ」をさしたと注意しておられる。(略)


そして氏はまた前にもあげた欠陥「新装刀の柄頭が飛び、柄糸が切れ、鍔元ががたがたゆるんだ」例をさらにここでもあげておられる。」


「まことに、日本刀には、「バッタバッタと百人斬り」ができるものでないことを、新聞記者にも「少時よりよく訓育すべき事であると、しみじみと感ぜしめられた」のが浅海版「百人斬り競争」と本多版「殺人ゲーム」であった。


この言葉を単なる皮肉や冗談だと思ってもらいたくない。鉄刃で鉄板を斬断することは、木刀でマキを割ると同様不可能なことだ、というわかりきった事実が通用せず、「百人斬り競争」「鉄兜もろとも真向唐竹割り」などという虚報が事実で通用するから、日本刀をぶら下げて「太平洋戦争」をはじめるのである。


そして、この「記事」が今なお堂々と「事実」と強弁されて通用している「事実」こそ、まさに寒心すべきことであろう。われわれは今も、さまざまの形の「百人斬り競争」を、疑う余地ない事実と思い込まされていることは、おそらく疑う余地のない事実だと私は思う。」