読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (白兵戦に適さない名刀)

「さらに「南京事件」がマスコミに大きく取り上げられたころ、新聞が、雑誌が「何人斬り」とかの体験者なる者を登場させていろいろ証言させたらしい。私はそれを読んでいないが、ある人から「山本さん、ああいうことが本当にありうるのか」と訊かれて少々驚いたことがある。


あくまでもその人の質問からうけた印象で、いわば「伝聞」に基づく判断にすぎないが、どう考えてもその証言者は、最大限三人が限界の日本刀なるものが、その構造的欠陥から必然的に生ずる状態を、全然知らないとしか思えない。


もしこれが、あり得ないほど珍しい例外的状態にあった人が全く偶然に登場したのでなく、よくいわれる「やらせ」の一種なら_そうでないと思いたいが_一体なぜそんなにまでしてマスコミが「日本刀神話」を維持したがるのか、私は少々理解に苦しむ。軍人が口にしようと進歩的人士(?)が口にしようと、事実でないことは事実でない。」


成瀬氏は、「神話」の破壊が許されない時代にあってなお、その時代に許されるギリギリのところまで実質的に「日本刀神話」を破壊しているのである。今の時代のマスコミに、なぜこのことすら出来ないのか。私には不思議でならない。」




「ところが、そういう「三年かかる居合術」といったものの訓練は、実際にはだれも受けていない。いわば例外である。従って「実戦としての剣術」というものは、実際にはだれも知らないし、下げている日本刀も「実戦用としての刀剣」とは言いかねるものであったはずである。


従って「斬る」ということが実際にどういうことか、ほとんど誰も知らない。」



「_R氏が中国の大刀(青竜刀)との比較に用いているのはこの部分で、青竜刀は幅広の刀身の先が、ちょうどこの彎曲になっているという。また私が後で調べたところによると、西欧の海賊が用いたカトラスの先頭の彎曲度も、ほぼこれに等しい。


「斬る」を原則とする刀は、実用品としては、この形になるのが当然であろう。」



「同じことが動力付きの園型肉切り包丁と円匙について言えることは前に述べた。
<筆の序であるが、昔の侍は、戦争の場合、いづれも刀の鍔元から五六寸のところの刃を引いて用ひた事が伝へられてゐる。これは、自分の刀で自分に負傷させる箇所は多くこの鍔元であり、実戦にあたって、殆ど用のないのも亦ここであるから、武道に熟腐熟を問はず、この部分の刃をひいて置く事の安全な事をおすすめして置く>


面白いことに、西洋のサーベルは、この 部分に刃がないのである。これは戦乱にあけくれたヨーロッパで、その体験から、自分が怪我をしないために、そうしたのであろう。日本刀にはそういう配慮は全くなかった。そして氏のこの注意は、結局、終戦まで実行されなかった。もっとも、実際に使うことが皆無に近いのだから、その必要はだれも感じなかったのであろう。


そして、鉄板を切りつけて自分の指を落したり、自分の足を切ってしまったりした例も、ずいぶんあったことであろう。」



「結局「事実」はだれにとっても「事実」で、それが「刀剣の専門家」にとって「事実」なら、生まれてはじめて軍刀を引き抜いた新品少尉である私にとっても「事実」なのであって、世の中に事実が二種類あるわけではない。あるように見えるなら、一方が「虚報」で一方が「事実」だというだけのことである。


そして「虚報」は常に、大本営的誇大表現を使い、大声をあげて、事実を消そうとするのである。(略)


いわば、「兵器としての日本刀」の使用法は、誰も知らないし、今も知らないのが実態であろう。そして繰り返して言うが、「知らないから」百人斬りが「事実」になるのである。」



「だがそれでは以上のような日本刀の実態、いやそれだけではない、それの象徴されるような「戦場の実態」が、なぜ今に至るまで人々に知らされず、戦争中の虚報の方がなお「事実」で通用するのであろうか。


マスコミの責任であろうか。では、「軍部の責任だ」「一握りの軍国主義者の責任だ」「天皇の責任だ」というように、「マスコミの責任だ」といって、居丈高にマスコミを糾弾すれば、それですむ問題であろうか。


おそらくそれだけの問題ではあるまい。これは、徹底したリアリストに成り切れず、自己および他の「情緒的満足感」を知らず知らずに尊重し、それに触れることと触れられることを、極度に嫌いかつ避ける民族性も作用しているように私は思う。」