読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (S軍曹の親指)

「私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振り下ろした。指をばらばらに切るより、手首ごと切った方が良いように感じたからである。がっといった手応えで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった。


衝撃で材木から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそうであった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たすようにした。


その時、ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはなかなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首から小指の付け根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度目の軍刀を振り上げた時、鍔が何か少しガタが来たように感じた。しかしそのまま振り下ろした。



手の甲はざっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がついたままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるような形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切った。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にすると、急いで土をかけた。


そのまま円匙を手にして、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すべてが麻痺したような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起こしたが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨なら手でなくてもよいだろう。そんな気がした。


軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出て来た。私は足首をつかんで力まかせに引き上げた。S軍曹の手がなかなか上がらなかったのでそうしたのであろうが、その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。力が余って、まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出て来た。



私は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の靴を押さえ、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。鋭い鋭角状に、肉と骨が切れた、おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」という形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。」


「その後のことは憶えていない。ただ真っ暗な中で、いきなり物凄い発射音がし、銃弾が膝頭をかすめ、床をぶち抜くとともに、「少尉殿」というK兵長のおびえたような声が暗闇から聞こえて、我に返ったことを憶えているにすぎない。


私は、疲れ切って椅子にかけていた。そして腰から拳銃を引き抜いたらしい。これは押収のコルトの回転式で、安全装置がない。無意識でそれをひねくっているうちに、引鉄に指がかかったのであろう。


私は極力落ち着いた声を出していった。「暴発だ、心配するな」。彼はロウソクに火をつけ、疑わしそうに私を見た。自殺とおもったのであろうか?「寝ろ、心配するな」私はもう一度言った。しかし彼は、傍らの机の上の拳銃と私の顔を疑わしそうに見比べていた。


事実、私は、それまでほとんど無意識で暗闇の中に腰掛けていたのであり、発射音に自分が驚いたのである。「寝ろ、ワシも寝る」そう言って私は自分でロウソクを吹き消し、床の上にごろりと横になった。この夜からK兵長の私を見る目は変わっていた。何か恐ろしそうな、不思議そうなまた信じられないといった目で私を見た。


私は少し寝たらしい。というのはその夜に起ったはずのもう一つのことを何も知らなかったからである。


人夫の遺体と二人の負傷者は、副官がすべての応急処置をしてくれていた。遺体は川辺に近い民家の軒下に並べられ、二人の負傷者は、応急処置をうけてその近くの民家で寝ていたはずである。しかし夜が明けてみると、遺体も負傷者もすべて跡かたなく消えていた。おそらく彼らには左岸のゲリラ地区と連絡をとる方法があったのであろう。夜中、だれも気付かぬ間に左岸へ運び去られたに相違なかった。



私は何一つ知らなかった。そしてそれを聞いた時、不意に前夜のN軍曹の言葉を思い出し、思わず「それでなぜ、ワシの寝首を掻いて行かなかったのかな」と言ってしまった。K兵長は返事をしなかった。


戦後この事件が「住民虐殺」にすりかえられて、私が戦犯になれるのではないかと多くの人が心配してくれた。あの負傷者の証言一つでどうにでもなることだし、そこの村長にしても、対日協力者と言われない為、また死んだ人々の遺族に、自分も強制されたというように見せてその「潔白」を証明するため、彼らがそういうことをしても、不思議でなかったかも知れぬ。私はそうなるなら、そうなっていい、といった妙な感じがあったが、この件では何も起こらなかった。



「その日から四十度ほどの熱を出して三日ほど寝た。マラリアの三日熱にかかっていたから、別に不思議ではないのだが、途中熱が引かないのが異常であった。(略)


おそらく二人の遺体は、あの位置にあのまま眠っているであろう。遺骨収集団が比島に行くというので、私は地図を添えて、詳しい手紙を送った。それに対する返事は、現地で行われた慰霊祭の写真だけであった。


しかし今では、それでよいと思っている。従ってもうその場所を口にする気はない。私が火葬した二人の手と足の骨は、軍の規定で、副官が管理していた。しかし実際は二人と仲良かった本部甲書記のA曹長が持っていた。彼はオリオン峠で死に、遺体は不明である。従ってこの骨もどこへ行ったかわからない。」