読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (戦場の内側と外側)

「確かに、戦場は大変である。しかしそれは、今の表現をそのまま続ければ、「死亡5」には無関心でもラッシュアワーは大変だ、という意味で大変なのであって、人は今と同様、「数」に還元された他人の死は、実際は少しも「大変」ではない。


これにもいろいろな理由があげられよう。心理的な防衛で、そうしなければ人はまいってしまうといったような。
だが基本的には、おそらく人は、他人の痛みを痛みとすることが出来ず、他人の飢えを飢えることができないと同様に、他人の死を死ぬことは出来ないからである。


人は「生死を共にする」ことはできない。そしてこの言葉が虚偽であることは「生死を共にしている」かの如くに、自他共に認められる状態にあった者が一番よく知っている。


同時に同一場所で射殺されても、人は死を共にしていない。まして生きている人間にいえることは、部隊長も死んだ、S中尉も死んだ、S軍曹も死んだ、O伍長も死んだ、同僚も死んだ、彼も死んだ、あれも死んだ、人夫たちも死んだ_そして私は生きている、といえることだけで、「生死を共にした」などとは、白々しくて、到底口にできない。


だがだれだれと言える対象の死は、その人にとっては「掲示板の数」ではないことは確かである。そしてこのことは、戦場であろうと今の一般社会であろうと、同じことであろう。(略)


確かにその戦闘の意義を強調した、仰々しい誇大表現をこれでもかこれでもかと盛り込んだ「訓示」が伝達されることはある。しかしその際も弾がとんでくれば、そんなものはもうわれわれ下っ端の念頭には全くない。


その人にとって「数」である死と「数」でない死は、確かにある。あってはならないと言われてもある。
O兵団が全滅した、X兵団が全滅した、△兵団が全滅した、と言われても、私自身、正直に言えば「掲示板」の数字同様、実感としては何一つ感じてはいない。しかし、部下の軍曹が死んだ、フィリピン人の人夫が全滅したと聞けば、瞬間的に無我夢中で駆け出す。


確かに私にとって全員の死は同一のショックであった。といっても、これは前述のように私が「日比人に差別なき人道主義的人間」であったということではなく、彼らの死が「数」に還元できなかったというだけである。だが理由はもちろんそれだけではない。


駆け出した瞬間から、何としてもおさまらないものがあった。それは簡単に言ってしまえば、この死に対する責任の所在である。もし二人だけが「部隊命令」でカタヤワンに行ったのなら、妙なことだが、それは「戦場の常」として、まだなんとか諦めがたであろう。



しかし、そうでなく、全くわけがわからず死んでしまったことが、何としてもやりきれなかった。というのは、二人の死の責任の所在を追及できないことは、私にはよくわかっていたからである。


責任の追及となれば、すぐ「タテマエ」が出てくる。そして「タテマエ」を押し出されれば、もうどうにもならない。」



「たとえ何をどう主張しようと、それは結局「S軍曹の独断・擅権・違令」といくことになってしまう。(略)
追求すれば、結局S軍曹の死屍に鞭打つ結果にしかならない。


最初に、巧みに「タテマエ」を破って既成事実をつくっておいて、ついで逆に「タテマエ」を主張されるともうどうにもならない_かつて自分がやったことが自分に帰って来た、船を横取りされた時の軍属の、あの「怨み骨髄」といった顔付と罵声を思い出して、あのとき、あの人たちもこんな気持ちだったのかと思った。」



「もっとも今にして考えれば、人は、否少なくとも私は、ずいぶん勝手だったとも思われる。自分もそれを悪用した加害者でありながら、一度それを逆用されて被害者となると、自分が「前夜の越権の曳行」という非常に悪い先例を示したという大きな過ちを忘れて、ただただ相手の責任を追及したくなってしまう。


今になって見れば、塩がいかに必需品とはいえ、そんな危険なところまで、なぜフィリピン人がやって来たか不思議に思う人もいるかも知れない。それは前述の「外部から見ている人間」と「内部の人間」との感覚の差ということが根本的な理由で、


地震で何百万も死ぬ」であろう東京へ我も我もと押しかけるという実情からも、ある程度は類推できることと思うが、さらに大きな理由は、彼らが「戦争」というものを全く知らなかったことであろう。」



「しかし、知らなったのは彼らだけではない。日本軍自体が、恐るべき近代戦の実相を何一つ知らなかった。何しろ、歩兵銃を主力にして、アメリカ軍と、いわば「ドンドンパチパチ」とやるつもりでえあった。


従ってアパリの陣地が最初は何と「作戦用務令」通りに水際陣地で、水際に塹壕を掘って小銃を並べるつもりである。

ガ島ではじめて近代戦の実態に接しても、おそらく軍の首脳は、何やら自分たちの想像もつかぬことが起こっているとは思えなかったのであろう。そして慌ててさまざまなことを転換しはじめ、それがわれわれ末端部隊まで浸透したのは、やっとサイパン全滅以後である。


おそらくは何やかやと理由をつけて自らをごまかしていてここまできて、やっと「ショック」を感じたのであろう。そうとしか私には思えない。従って我々自身が、近代戦の実態を何一つ的確には把握していない。(略)


いわば全員が、程度の差こそあれ、「知らぬが仏」であった。私から見れば、戦争という概念のほとんどない彼らには、実にのんきな一面があった。だが彼らから見れば、戦争をしているわれわれの方が少し頭がおかしいと見えたかも知れぬ。


彼らにとっては、せっせと塩をかせぎ、それをもって、左岸の家族のところへ帰ることは当然の仕事で、それしか念頭になくても、それは彼らには「正常」なことであった。


私は今でも、正常なのは彼らであったと思っている。従って生き残った二人と死んだ者の家族が、みな私に騙されていたと思い込み、このままではまた何が起こるかわからないと、死体もろとも逃げてしまったとしても、別に不思議ではない。おそらく一家一族は異常なショックで、私を恨んで泣き明かした事であろう。」