読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (戦場の内側と外側)

「なぜ死体までもって逃げたか。おそらくそれは、彼らが純粋なカトリック教徒であったからであろう。文化様式には理由がないから、何とも致し方ないことであるが、彼らにとって「火葬」とは「火刑」に等しいことであったと思われる。(略)


従って、彼女が、自分の夫は日本軍によって異端者のように焼き殺されたといっても、それは彼女にとっては少しも嘘ではない。しかし一方、その戦犯が「冗談じゃない、敵ながらあっぱれと思い、彼だけは特に丁重に火葬したのだ」といっても、これも嘘ではない。


ルバング島に多くの新聞記者が駆け付けた時、ある新聞の報道の中に「日本軍に焼き殺された」という現地人の談話がのっていた。その時私はふと、このことを思い出した。「焼殺」といった意味の言葉は、これを正しく日本語に移しかえることは、おそらく、「中国語」からでも「フィリピン語?」からでも、非常に難しいことであろう。


そして一番危険なことは、一知半解の速断がマスコミを通じて一般的常識となり、相互誤解がますます深まって行くことであろう。」



「当時の私の一種の執念は、この全員の「死の責任」の所在の追及へと向かっていた。「命令権」のないはずのだれが、どう強要して、彼らを死に至らしめたか。どこのだれだ。ムラムラと半ば発作的にそれを追求したくなったかと思うと、一種虚脱状態ともいえる放心状態になったりした。


今の今まで、自分の周囲で笑ったり話したり動いたりしていた多くの人が、アッという間に死体の山になったとき、人は、この状態にどう対応してよいかわからなくなる。


一種独特な心理的戸惑いは、ちょっと表現のしようのない顔付となって表れる。非常に似た表情を探せば「憮然」である。駆けつけて来た副官の死体を見下ろした横顔は、文字通り「憮然」であった。だれでもこういう顔をする。おそらく私も一瞬、こういう顔をしたであろう。


そしてこの表情をカメラに収めた人間は、私の知る限りでは、キャパしかいない。それは「ノルマンディ上陸作戦」の中の一枚の写真である。海浜に死体が並べられている。その傍らに二人の兵士が立ち、今の今まで自分と同じように生きていたその死体を見下ろしている。その横顔、それはただ「憮然として眺めている」としか言いようがない。そしてこの顔を見た者には、生死を共にするなどという言葉はない。(略)



ある映画監督が、戦争映画をつくるにあたって、「自分は戦争に反対だから、戦争反対を打ち出すため非常に残酷なシーンを描く」といった意味のことを新聞に書いていたが、この考え方はおそらく誤りである。人は、麻痺するものなのだ。ショックを受ければ、おそらく心理的防衛のためと思われるが、必ず麻痺していく。


従ってそういったものはヒロポンと同じで、創作画面や創作記事で人を人工的に覚醒させると、瞬間的にはショックを表しても、結局は反動的に人は麻痺状態になる。するとさらに強い「人工的覚醒的表現」が用いられることになり、この悪循環は最終的には完全な「残虐場面麻痺人間」という一種の廃人をつくっていく。これは非常に恐ろしいことであろう。そういう人間は、確かに、戦場にいたのだから。」


「砲撃にもこういうスポーツ的要素があるという事実は否定できない。特に内地の射場での射撃練習、秋の太陽の下の広大な原野で、人畜無害の代用弾を標的目掛けて発射するような場合には、一種、ゴルフと似たような要素があったのではないかと思う。(略)


砲撃の「ホールインワン」はまず皆無である。だが絶対にないとはいえない。否それどころか妙な事に、命中したら大変だというときにこれが起る。アパリの飛行場の滑走路目掛けて試射したときこれが起った。


日本軍がまだ使っているのだから、命中したら大変な事故を起こしかねないわけだが、何しろ射距離が砲車によって四千から六千、しかも、ジャングル内に完全に隠れている砲と滑走路と観測所の関係位置は、測地によってそれぞれの座標をだしているだけだから、こういう場合、初弾命中などということはありえない、とするのが言わば常識である。(略)



その瞬間「何をスルッ」という物凄い声が、受話器をつけていない方の耳に入った。「むちゃもいい加減にシロッ、滑走路に砲弾を撃ち込むとは何事ダッ、キサマ絶対に滑走路に落ちんと言ったジャロッ!」激怒した飛行場警備隊長の声である。



無理もない、私はあわてて本部に電話しようとしたが、それより早く受話器をつけた耳に「山本!何をボサボサしとる。弾着結果をすぐ報告せんかッ!」という師団班長の声がとびこんできた。


私は思わず反射的に「初弾命中」といい、ついで「指揮班長殿、指揮班長殿!」と呼んだが、もうだめである。ホールインワンに躍り上がっているような雰囲気が伝わって来る。こちらの声などは耳に入らないらしい。(略)


確かに、実戦の砲撃という殺人行為にもこういう要素があり、それには実に強力な一種のストレス解消の作用があるなどということを認めることは、私自身、大きな抵抗を感じて否定したい気持ちが強い。しかし現実にあったと思われることを、なかったように記せば、それは二重の虚偽にすぎないであろう。



戦争とスポーツには、確かに何か関連性がある。アメリカ兵には、「自分は戦争をスポーツと心得ている」などとヌケヌケという人間がいた。(略)



特にこれがはっきり出ているのは、。日本の場合は、兵士よりむしろ戦争スポーツの応援団と観客(ファン)の方であろう。「大戦果」に興奮して酔ったような新聞ラジオ、まるで試合の中継放送のように「戦局」の推移に一喜一憂するその感激調と悲壮調!冷静はそこには皆無であったではないか。そしてその興奮を感じない人間は非国民とされた。


そして、兵士のPTAをもって自ら任じた国防婦人会の白割烹着と白ダスキのオバチャンたち。確かに彼女らは親切であった。動員列車のとまる駅駅でお茶をサービスしてくれたし、キャラメルもくばってくれた。だが一方的に興奮している彼女らの激励や応援に、兵士たちは答えず、ただ黙って敬礼しただけであった。そして、汽車が動き出しても、長い間、彼らはむっつりと黙っていた。



女性は常に戦争に反対であったなどという神話は、私には通じない。戦争をその心底いて本当に憎悪しているのは戦場に連れて行かれる兵士であって、絶対に戦場にやられる気遣いのない人々ではない。


そしてあらゆる問題の解決において、最も有害な存在は、無責任な応援団であろう。そして「現場」に送られる人間にとって最も不快な存在は応援団であった。その中で彼女たちは確かに非常に親切であった。しかしその親切もこの不愉快さを消してはくれなかった。


そしてこの不愉快さは従軍記者に対してもあった。


話は横道にそれたが、そういった意味の「戦闘のスポーツ的」要素が、私のストレスを放散し解消してくれたことは否定できない。これは前述の麻痺とはまた違った形の無感覚であろう。私はその無感覚の中にいたかった。そして将来がどうなるかわからないにせよ、最後まで小隊長という状態のままでいたかった。


そこへ指揮班長からすぐ本部へ戻れという指示が来たので、何ともいえずうんざりしたことは事実である。


それまでに何らかの仕事が出来たにせよ、それを私がやったと思っているのは指揮班長の誤認で、実際はS軍曹とO伍長がやったのであって、二人を失った私は両腕をもぎとられたに等しく、もう何一つできないことは私自身が一番よく知っていた。


従って本部に戻ったところでご期待にそえることは何もできない。それがわかっていることも気が重い理由の一つであったろうが、最大の理由は、いわば二人と現地人の人夫の死の現場に戻ることで、折角得た「無感覚」を失う苦しさであった。


それは卑怯かもしれない。しかし記憶しているとはいえ、刺すような苦痛は半ば消え去りかけていた。そういうとき、人は苦痛には戻りたくない。同時に、対住民折衝だけはもうたくさんだ、という気持ちもあった。(略)


なぜこういう仕事をやらされるか、それは私が当時の水準としてはやや英語が出来たという一事につきる。」