読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (陸軍式順法闘争の被害者)

「もっとも今でも行われているであろう「ハン取りの序列」だって、私の目から見れば全く「下らん」「バカバカしい」の一言につきるが、それすら官僚機構の内部では大問題なのだろうから、軍隊だけがバカげた組織だったとはいえまい。」

〇国が滅びるかどうかという時にさえ、しっぺ返しで、兵隊を危険に晒す。「人間は、どこまでも愚かだ…」という物語を生きる人と、あの「タイガーと呼ばれた子」の中での、協力体制から、「人間って時には、すごいことをする」という物語を生きる人では、世界観はまるで違ってくるだろうなぁ、と思います。

あの「苦海浄土」の石牟礼氏の言葉を思い出しました。

「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。」

「私は内心ふと考えた。「そんなに話が分からんのなら、マ、いい。返納せずに使っていれば一向差しつかえないわけだ。そして機会があったら閣下に直訴してやる、閣下なら、理屈さえ通っていれば、こんなバカなことを言うわけがない…」


その瞬間、こちらの内心を見抜いたようにT中尉がいった、「山本! いいか、この件で閣下に直訴したら、どんな事態になっても、オレは知らんぞ。」図星をさされた。私はビクッとして相手を見た。


貴公とオレとの仲だ。オレが好き好んでこんなことを言ってるのでないことはわかるじゃろう」彼は、言葉をつづけて「燃料の流用」「集買班の存在」等々様々なことがすでに問題になっていると言った。


そして驚いたことに、私が、アムルンの町長に員数外の拳銃をやったことまで知っていた。この町長は砲兵隊の集買班を援助していたため、ゲリラに狙われており(恐らくそう思い込んでいただけだろうと思うが)、少々ノイローゼで、何としても護身用の拳銃が欲しいといった。私はそれを渡した。



だが今でも不思議なのは、この話し合いと授受が行われたのは町長の家の大きな納屋の中で、そこに居たのは私と町長と伍長の三人だけで、だれも知らないはずだったからである。



私は迂闊だったので、何気なく自分の腰から拳銃を外し、町長に渡した。その瞬間、後に立っていたO伍長は、胴ぶるいがしたそうである。というのは、彼は車の中に小銃を置いて来たので、丸腰に等しい二人が、拳銃をもつ一フィリピン人の前にいる結果になってしまったからである。


もし町長が変心して、二人を射殺して、階級章をはぎとって左岸に逃れれば、それだけで「対日協力者」から「英雄」になれるはずであった。



私は何も気づかず町長と話をつづけた。といっても数分だったと思うが、O伍長にはそれが、何十時間というほど長く感じられたそうである。車まで戻ったとたん「少尉殿こまります。用心していただかんと自分が困ります……」といって、彼は私を面詰した。彼が私に「文句」を言ったのは、後にも先にもこの時だけであった。


彼は兵技下士官だから、この交付が表沙汰になったら大変だということはよく知っていた。「陛下の兵器を土民にわたした」などといって、正面切って糾問されたら、こちらは申し開きの方法がない。さらに「員数外」だなどということがわかったら、それこそ二重の違法である。(略)



だが結局はどこからかもれ、だれかが司令部にご注進に及んだのであろう。」



「軍隊経験の長かった部隊長は、何度も、その局部的敗戦・壊滅の苦境に立たされたわけであった。従ってある意味では、すでに何度も敗戦渦中にあり、その惨憺たる状態を身をもって体験し、それを切り抜ける唯一の方法は、あらゆる方法であらゆる手段をつかって温存して持ちこたえることであり、それ以外に方法が無いことを知っていた。「兵力温存」これが部隊長の至上命令であった。


部隊長が、太平洋戦争の勝敗をどう見ていたか知らない。おそらく、非常に的確にその終末を予測していたであろうと思う。というのは部隊長ではないが、私にはっきりと「この戦はまけじゃな」と言ったのは、同じ経歴の一少佐だったからである。それはまだ昭和十九年のことで、その人は私にとっては、敗戦をはっきり言明した最初の人であった。


こういう人たちは長らくの経験とカンで、何かのちょっとした徴候から、すべての状態を察知することができたのであろう。


だが部隊長という職責は、部下にそういうことを明言することは許されない。ただ全般的な勝敗は別として、「比島の戦闘」は決定的な局地的敗滅に終るであろうことを、部隊長ははっきりと知りかつ明言していた。そしてそれに備えてあらゆる手をうった。


そしてそれはまた、別の面から見れば徹底した「部隊エゴイズム」であり、さらにつきつめていけば、それは「生存競争」だったのである。(略)



そして私がある程度は確かにこの部隊長に惚れ込んでいたことは、彼に、後述するインテリ特有の醜い面がなかったことと、自己犠牲を演じたり、正義の代行人のような顔をしたりして、組織の中で他を蹴落とすという個人的生存競争で勝とうとはしなかった事であろう。



もっとも彼は「兵隊元帥」であり、行くところまで行きつき、下はあったが実質的には上はなかった。


乗用車の「増加兵器支給申請書」は結局、「受け取れん」「いや、持って帰れません」の押し問答のすえT中尉と私との暗黙の了解で、F軍曹が申請書を預かる事になったわけである。(略)



一番苦しい立場に立たされたのはF軍曹であろう。おそらくK参謀から「なぜ勝手にそんなものを受領した、砲兵隊に突っ返せ」という罵声と共に、相当な暴行を受けたのではないかと思う。
彼が恨みがましく最初に口にしたのはこの「宙ぶらりんの申請書」だったからである。


私に返そうとしても私が受け取るわけはなし、T中尉も受け取るわけはない。彼から見れば、おそらく全将校がもちろん私も含めて卑怯で卑劣で弱い者に何もかも押し付け、自分は口をぬぐって知らんふりしている詐欺師同然の実にきたない人間どもに見えたのであろう。



これが単なる想像でないことは、戦後の収容所が証明している。そしてこの傾向はいわゆるインテリに共通していることかも知れない。外国のことは知らない。しかし少なくとも日本では、教育を受ければ受けるほど、人はある面では堕落するように思われる。


そしてその醜悪な面を否応なく見せつけてくるものは、浅海特派員の戦犯法廷への上申書だが、全く同じことが、本多記者の「殺人ゲーム」とそれに関連する叙述にも、又それへの知識人の反応にも見られる。



「死人に口なし」、不当に処刑された者、もう口がきけないし弁明も出来なくなった者に一切を押し付け、そして自己の地位とか名声とかに問題が関連して来ると、もう、なりふりかまわぬ自己弁護になってしまう。


おそらくF軍曹は、S軍曹にも「何とかならないだろうか」と相談したのではないであろうか。そしてS軍曹は、こういったさまざまの「借り」_これ以外にもある。細かい説明ははぶくが、燃料を支給されてない乗用車が動くことだって、実は奇妙なことのはずである_を返すため、おそらくもっと具体的な何らかの示唆で、私の事後承諾を条件に、カタヤワンの船着場へと車を走らせたのであろう。


もちろんこれも、それを意図したわけではあるまいが、これが私に対する最も強烈で致命的ともいえる「シッペ返シ」になった。今度は私が、既成事実を一方的につくられ、それで恐るべき事故を起こされながら、一方的に「タテマエ」で押し切られる番になった。



相互にこれをやりあうこと、それが日本軍だ、お互い様だ、と言えばそれまでだが、また天に唾する如く、やった通りのことが自らに返って来たのだといえばそれはその通りであろうが、目の前で部下を殺されながら何一つ出来ないということは、あまりに苦しかった。



だが思い直せば、最大の被害者はむしろF軍曹かも知れない。「タテマエ闘争」は確かに最も弱い所へとしわ寄せされる。彼こそ、矛盾のすべてをかぶせられた存在であった。そのため重傷を負い、しかも、彼の目から見れば「部隊エゴイズム」のかたまりのような私から糾弾されねばならなかったことが、何よりの証拠であろう。彼の言葉は、当時における精一杯の抵抗であったろう。


何が二人を死地に追い込んだか、この追及はここで打ち切りたい。」