〇「空閑少佐」という名前を初めて聞きました。
ここの文章を読み進めてみても、なんとなくわかるようなわからないような…
なので、こちらのサイトを参考にしました。
「順法闘争で記者が「とまる」。だがこの方式を逆にすれば「暴走」も可能であろう。だがそれで恐るべき事故を起こしたらどうする、その場合、その責任はだれにあるのか。(略)
しかしそれは国鉄総裁の首のすげかえと同じで、それによって「陸軍式順法闘争」すなわち「タテマエ闘争」がなくなるわけはない。そして実際に汽車をとめたり軍を暴走させたりする「力」の実態は、いつも解らないままなのである。
だれもそれに触れないし、だれにも究明できない。そして国鉄総裁とか、また青年部に突き上げられている実権なき委員長とかいったような「名目上の責任者」の責任をいろいろな方向から追及しても、現実には、追求すればするほど実態がわからなくなってしまう。
そして結局は何らかの名目上の責任者を処分しておしまいにする_一方、内部にいるわれわれから見れば、実際には「この人こそ本当の責任者ではないか」と思われる人がはじめから全く不問に付されている。
否それどころか、時には、「本当の責任者」が「名目上の責任者」を告発して処刑場に送るに等しいこともしている。
簡単に私自身を例に取れば、部下の死もフィリピン人の死も、その責任は私だということになる。しかし私は、。内心ではそれに承服はできない。しかし「オレの責任ではない」といえば、「部下を殺してなおその責任を回避した卑劣な人間だ」ということになる。
特に人夫の死を追及されて、非戦闘員の殺害だといわれたなら、大方どう抗弁しても無駄であろう。命おしさにジタバタして、あげくの果てに絞殺された卑怯者と言われるぐらいなら、黙って死んだ方がましである_という気になると、本当の責任者を自ら隠す結果になってしまう。
こういう点で、。さまざまな問題を考えさせられるのが、韓国出身の洪思翊中将の処刑である。洪中将の裁判記録は今、時間の余裕を見つけて少しずつ読んでいるところだが、これはあらゆる面で実に貴重な記録と言える。
洪中将自身は、個人的には何一つ犯罪行為といえることはしていない。彼はある位置にいたというだけである。確かに「名目上の責任者」だが、実質的には何ら権限を行使しえず到底責任者といえないことは、満州事変における本庄中将以上であり、また順法闘争における国鉄総裁以上である。
「ではいったい以上のような状態にある者を、犯罪者と規定することが出来るであろうか。そしてその責任を追及することで、どこかにいる本当の「責任者」を隠してしまうことが果たして「正義」なのであろうか。いわば「形式的責任犯」というものがありうるか。そしてその処罰は正義にかなうか、という問題がここで出てくる。」
〇「形式的責任犯」として挙げられたのが、森友問題で、
公文書改ざんをした佐川宣寿氏でした。
なぜ、改ざんしなければならなかったか、その動機については、
誰もふれない。その動機に関わる本当の責任者については、
全く不問に付されている。
そして、どこからともなく、「この問題は、これで幕引き」という
声が聞こえて来て、それ以降、マスコミもこの問題にはまったく
触れなくなりました。
そして、最近は、もっぱら、その責任者である本人の「三選」のうわさが
流され、あたかも既成事実であるかのようなムードが作られている。
「空気の研究」や「愚かな一斉唱和」の現象をリアルタイムで目の当たりにして、
今、思うのは、おそらく戦前もこのやり口で、ことを運んだのだろう、
ということです。
よく言われる、国民がアホだった。騙された。というのは、一面では
確かにそうだと思いますが、それ以上に、意図的に「騙す人がいる」という
事実です。
現在の状況を見ると、意図的に嘘をつき、騙す人が確かにいます。
もう、嘆くのにも疲れてしまうほど、嘆かわしい社会です。
メモを続けます。
「ありえないという立場に立った(それだけではないが)のが東京裁判におけるインドのパル判事だと思うが、「ありうる」「ある」という立場に立っていたのが、実は「陸軍刑法」なのである。
戦犯への判決を調べていくと、このことがはっきり出てくる。」
確かにこれは、不思議な問題である。というのはこの論法を推し進めると、洪中将の刑も正当ということになってしまうからである。
だが、その要点、すなわち本多判決と陸軍刑法が一致するという…は、考えてみれば少しも不思議ではないのかも知れぬ。オフチンニコフ氏が「さくらと沈黙」の中で非常に面白いことを言っている。戦後アメリカ軍が戦争中の日本の「戦意高揚映画」を押収して、全部映写してみた。
すると何とそれが全部「反戦映画」に見えたというのである。もちろんナレーションと台詞はわからなかったであろう。
最近にいわゆる「反戦映画」だが、これもつづけて映写してみたらどうだったであろう。おそらく全部が一貫した見方に貫かれる「反戦映画」で、同時にそれは逆に見れば全部「戦意高揚映画」であって、差は詠嘆的ナレーションの内容の一部だけだということになると思う。いわば基本的な「視点」は同じなのである。
従ってそういう修飾を全部消して行き、「判決」の出どころ、すなわち判断の基点を求めていくと、本多判決と陸軍刑法は全く同一で同判決という結果になるわけで、それは結局両者の精神構造が同じだからであろう。オフチンニコフ氏にとっては、そうなるのが当然で不思議でないかも知れぬ。」
〇 ここで、言われていることが、よくわかりません…
例えば、北の某国の詠嘆調の「ニュース」を聞く時、正直、この国の国民でなくて
良かった…と思います。どれほど、あの女性アナウンサーが、情熱を込めて、国の素晴らしさを称えても、そのこと自体が、「うんざりする国だ」と証しているように見えます。
それに似てる現象なのでしょうか? よくわかりません…。