読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (最後の「言葉」)

〇 戦争中の具体的な事実は、知れば知るほど辛い気持ちにさせられます。
また、終戦記念日の15日が近づき、特集番組を見る機会が増えました。

親が死に、駅で暮らす「浮浪児」たちが、当時どのように生き延びたのか、についてのレポートでした。

印象的だったのは、「なんで浮浪児になったのか、みんな知ってるはずなのに、まるで、野良犬のように、追い払われ、蹴飛ばされ、邪魔にされ、放置された。優しく気にかけてくれた大人は、一人もいなかった」という言葉です。

泣きわめく子供を二人の大人が捕まえて引きずる写真を見て、
涙が出てたまりせんでした。

そして、やっと、浮浪児を無くすために、政府が動き始めたのは、GHQからの指示があったからでした。
アメリカ政府が指示しなければ、私たちの国の政府は、子供たちを守る、という意識さえ持っていないのです。

今の政府と重なります。


そして、船乗りたちの戦争で、本当に本当に酷い!!と思ったのは、民間の船舶や、漁船などを軍用に組み入れるために、あらかじめ、どの程度、「沈む」かについて、
検証したところ、あまりにも、ボロボロに沈むので、とても、その数字を公には出来ない、ということになり、インチキをして、噓の数字を報告した、という話です。

なんで、そうなるのか…

ボロボロに沈むのであれば、徴用しても意味がない、と考えるべきではないのか。

もう、情けなくて情けなくて、なんでこんなこともわからないような
情けない人間が、私たちの国のトップなのか、と嫌になります。
そして、今も全く同じ体質の人々が、大きな権力を振るい、
憲法までも変えようとしているのです。

軍需産業に年金資金の多くを投資しているそうです。
戦争を起こせば、年金も大丈夫だとでも、考えているのでしょうか。


このような体質の人間だったからこそ、あの酷い戦争を起こした。
それが、戦争に負けたため、私たち国民には、建前だけとは言いながらも、
一応、人権や平等や自由という概念の権利が与えられた。

なのに、今、それを失おうとしています。
戦前に戻されようとしています。

正直言って、今はもう、そのことを考えるのが嫌になりました。
頭を空っぽにして、日々を過ごしていたくなります。
考えても、どうにもならないのですから。

何故、公明党は、あんな安倍政権を支えるのでしょうか。
創価学会の人々が支えているから、安倍政権はやりたい放題やれるのです。

気もちが落ち込んでやりきれません。

この「私の中の日本軍」も、最後の見出しになりました。

メモします。

「すでに私自身も何度か記し、会田雄次安岡章太郎両氏も指摘し、また多くの人たちが指摘しているように、日本軍なるものを把握していたのは下士官であって、実は将校ではない。



従って南京後略の実態も、本当に把握している人があれば、それは部付の下士官もしくは准士官または下士官出身の下級将校のはずである。(略)



長勇とか辻政信とかいったタイプの、大言壮語・誇大妄想・自己顕示型の参謀の一方的言いまくりを取材したとて、第一、こういう人自身が何一つ実態を把握しておらず、それが日本の悲劇だったのだから、その取材自体が無意味なだけでなく、いわば「虚報の上塗り」で、新しい過誤への出発点になるにすぎない。




長参謀の「三十万人をことごとくブッタ斬った」をはじめとする、南京後略当時のこういう人々の正気とは思えぬ放言、それに悪ノリした当時の、また今の記事などを読むと、こういうタイプの人たちは、どこまで同胞に迷惑をかけ、かつ誤認に基づく誤判を一般化しつづけるのかと、少々暗然とせざるを得ない。



私の部下であったあのS軍曹のような、優秀で沈着かつ実直そのものの本部付下士官による、正確に実態を把握した記述が、どこかにないであろうか、と思って大分探したのだが、こういう人たちは元来、正直・生真面目・寡黙で、また自己顕示欲皆無なので、なかなかっ見つからなかった。



そして締め切り直前に鈴木明氏から見せていただいた同氏への手紙の中にあった第九師団第三十五連隊第一大隊本部付軍曹であったN氏の手紙に、やっとそれを見出したわけである。」




「記述はまず最初に「城外の戦闘」からはじまるが、この部分を読めば、中国側の基本方針はすでに「南京死守」ではなく、撤退を前提としていることがわかるであろう。



だが手紙のすべては、おそらく今の人には、「何とのんびりした」という印象を与えると思うが、「二本足」しかない日本軍なるものとその戦場のこれが実態なのである。


いわゆる「南京大虐殺」について、戦後にいろいろと書いている人に共通する点は、その人たち自体が、すでに「クルマ時代」「新幹線時代」の人なので、二本足しかない集団の動き方の本当の実感が全然つかめず、そのため、想像に絶する突拍子もないことを平然と事実だと言っており、本多記者の「殺人ゲーム」は、実はそういったもののほんの一例にすぎないのだから、まずその感覚を排除しなければ、実態はつかめないであろう。現代のスピード感にマッチする記事があれば、そのことだけでそれは虚報といえる。



次に大本営的・新聞的な「一斉に突入!敵、算を乱して壊走」といった表現はすべて振り払わないとやはり実態はつかめない。「戦場は盲人のプロレス」と言った人がいたが、これは戦場の一つの実感である。


お互い全く相手の位置も実体も実力も出方も皆目わからない。「急追・猛追」などをしたら、どんな陥穽に陥るかわからないし、第一、補給がつづかない。従ってすべての行動は、いわば盲人同様にまず「手探り」ではじまるわけである。双方ともに手探りだから、その動きは実にのろく、にぶく、絶対にさっそうとはいえない、これはいずれの場合でも同じである。(略)




以上二つのことが、N氏の手紙には実によくでているので、それだけでも貴重な記録といえる。
では次に引用させて頂く。


<私は第九師団(金沢)歩兵第三十五連隊(富山、富士井部隊)の第一大隊本部付軍曹の身分で中山門攻撃に参加し、同年、十二月二十四日まで南京にいた。
中山門外の敵防御陣地は、城壁から一千百メートル程離れた線を第一線とし、およそ三百メートルの深さにわたっておおむね三線に陣地を敷いていた。


縦横無尽に散兵壕を掘り返し、鉄条網を張り巡らしてあったが、兵力は思ったより少なく、上海付近の戦闘に比べて弱体であった。ただ右の方、紫金山から撃ちおろされる銃弾のため、しばらく難渋した。[後述するが、この部隊の入城が光華門の部隊より一日遅れているのは、おそらくこの紫金山の中国側の防火器に前進をはばまれたためで、それが赤筒発射の一因であろう]



十二月十日敵前二百メートルの「南京陸軍兵営」の線で攻撃準備を整え、翌十一日に攻撃を開始した。
[小銃が主力の当時は二百メートル離れれば、ほぼ安全である。日本軍も大体同じで、その「威力範囲」はせいぜい三百メートルであって、それ以上離れれば、無害というより「加害不能集団」であった]



同日午後二時第一線陣地に突入、午後三時に第二線陣地を奪取、午後三時三十分に第三線陣地を奪取して、城壁との距離約八百メートルとなった。ここから城壁までの間には、支那軍の工兵隊作業場などがあったが、敵陣地は、小さなものが点々とあったに過ぎない。


[ここで城外の戦闘は終わっており、第一線陣地への突入から第三線の奪取までが、わずか一時間半である]


この戦闘で、友軍の戦車が応援にやって来たが、地形が極めて複雑で、障害も多く、ことに点々と地雷が埋められてあったので十分な働きは出来なかった。もちろん一般住民は一人もいなかった。>」