読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (最後の「言葉」)

「これで見ると、向井少尉の所属部隊は明らかに「紫金山攻略」を意図していたのではない。また鈴木特派員が「週刊新潮」でのべているような「なかなかの激戦」でもない。さらに浅海特派員が記す「中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩りの真最中」も事実ではない。N氏が記す通り、手榴弾・地雷等があって、入城数日後も安心して歩けない状態であったのだから_戦場とは勇ましくとびあるける場所ではないのである。


そして前に推定したように、彼の部下には戦死者もおらず、戦闘らしい戦闘もなく、いわば負傷治療、無事帰隊直後の彼が、浮き浮きした調子で「新聞記者とオダをあげうる」状態だったわけである。



以上の他にも、向井少尉についての当時の関係者からの様々な手紙を鈴木明氏に見せて頂いた。負傷し入院した彼に会ったという手紙、「俺は歩けるから」といって馬を降り疲労困憊した部下をかわりに乗せていたという手紙、普通の市井の人で実に礼儀正しく、除隊すれば立派な紳士であったろうという手紙等々、それらはすべて上申書・遺書からの印象を裏書きするものばかりである。(略)



私にとって最後まで一つの謎であったのは、彼が「十日の会合」を否定するのは当然としても、なぜ上申書で「十五、六日」に帰隊したと記したかである。彼はおそらく十日に湯水鎮で部隊に追いついたのだから、これをそのまま記しても十日の会合は否定できるはずだからである。(略)



これはどう考えても奇妙である。そして「週刊新潮」は、この点については、
<十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかった」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない>
と記している。(略)



富山氏の証言は、むしろ部隊も彼も南京城内に入らなかったという点に重点がおかれ(関係者の証言によるとこれは事実)、時日には重点がおかれていないからである。氏は、向井少尉が「南京大虐殺」の戦犯として起訴されたときき、反射的に「場所のアリバイ」に重点が置かれたためではないかと思う。



というのは、「事件」からすでに八年余り、自分に直接関係のない新聞記事の内容などはだれもそんなに長く正確には憶えていないし、富山氏は、彼の直属上官(中隊長はすでに死亡)ではない。第一、こういう創作記事は、当時の新聞には文字通り腐るほど紙面に氾濫していて、特に目立つほどのものでもなかったからである。



そして人の記憶のうち最初にあやふやになるのが、実は「日時」なのである。(略)
私はある機会にそれを思い知らされたわけだが、これは戦争裁判の証言で、実に困惑得られることであった。この点、富山氏の証言はむしろ正直であると私は思う。



この「正直」という言葉は、私にとっては言い過ぎではない。というのは私には、。日時という問題で、生涯気がかりな事件があるからである。



それは昭和二十年の九月末ごろのことだったと思う。当時はアメリカ軍に収容されて間もないころで、第十六キャンプとは名ばかりの、ラセン形有刺鉄線でかこまれただけの広い場所に点在する、かろうじて雨露をしのげる幕舎の中で、土の上にごろ寝して、空き缶にもらった水のような粥をすすっていた頃のことであった。夜は真の闇である。



ある夜、私は全く見ず知らずの男に呼び出され、だれもいない空幕舎につれこまれた。闇の中の土に腰を下ろすと、相手は「砲兵隊本部の山本さんか」と何度もくどくど念を押した。そして私がまちがいなくその本人だと知ると、不意に「あなたは、十九年十月八日カバナツアンからアルカラまで、アパリ憲兵隊長N大尉の車に便乗した
ナ」と断定するような口調で言った。(略)



相手はなお執拗に質問を繰り返したが、ない事実をあるというわけにはいかない。そこで徹底的にないの一点張りでつっぱねた。相手は去った。
その後も二、三度、この男の訪問をうけたが、それはいつも夜、必ず私を幕舎から呼び出し、質問はいつも同じであった。(略)



それから半年ぐらいたってからであろうか。私は戦犯容疑者収容所に移されており、そこである機会に、N大尉が処刑されたことを知った。「ひどい話だな。前任者の罪をおっかぶされたんだな。彼が赴任したころには、憲兵なんざ何の力もなかったはずだ」と考えた時、不意に背筋へ冷水を浴びせられたように感じた_。(略)



ことによったら、私は彼の赴任の日を有効に証言できた唯一の人間だったかもしれない、と思うと、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、と暗然たる気持ちになり、頭の中がポカッと空白になったような気がして、しばらくは何も考えられなかった。(略)



それがこの問題の最も大きな原因と思うが、告白すれば原因は彼だけではなかった。当時の私は人間の好き嫌いが病的に激しかった。そして収容所に入ったころのことを思い起こせば、確かに少し異常であった。そして彼の態度や言い方は、最も嫌いなタイプのそれであった。」



「翌日十時ごろだったと思う、アパリへ直行する車があり、便乗を許諾されたからという連絡が受付からあったので、私は急いで部屋を出、兵站旅館の受付へ下りた。そこに一人の大尉がいた。(略)



しかし実在の憲兵将校の多くは、「鬼刑事」というより、むしろ「六法片手の警察署長」といった感じであった。そして、士官学校の中途で胸部疾患を発見された者は、大体、憲兵将校になるというのが当時の常識であった。もちろん、それが事実かどうかは知らないが、N大尉はまさにそういった感じの人であった。(略)



やはり彼は着任したばかりであり、アパリの憲兵隊へ隊長として赴任するところであった。(略)
そして何やかやと喋っているうちに、何かのはずみで二人が同い年であることもわかった。(略)」




「だが私には解けない謎があった。それが十月八日、カバナツアン→アルカラ」である。だが考えているうちに、また背筋をつめたいものが走った。少なくとも「アルカラ」と言ったのは私自身であることを思い出したからである。イギグは小さな部落であまり知られていない。そこで便乗依頼のとき私は必ず「アルカラまで」とか「アルカラの少し手前まで」とか言っていた。彼がイギグという名を知らなくとも少しも不思議でなく、むしろそれが普通である。



また兵站旅館の受付が「アルカラまで一人便乗お願いします」と彼に言ったとしても、それは当然である。(略)



そうなると私には「九月八日」まで自信がなくなってきた。私は必死であらゆることの日付を正確に思い起こそうとした。そして紙と鉛筆を手に入れ、克明に自分の行動の跡を追い、それを摘記して日付を入れていった。あらゆる方面から検討して、それはやはり「九月八日」に違いない、そして今でもそう信じているし、本書の日付はそれによっている。



しかし、心のどこかにある「自分がそう思いたいだけではないのか」という危惧を完全に払拭し切ったわけではない。(略)つくづく、日付の記憶というものが実にあやふやだと思い知らされたのもまた事実であった。



だがおそらく「九月八日」がやはり正しいのだと思う。では一体なぜ「十月八日」と彼は思い違えたのであろうか。九月八日でも、あの事件はそれ以前、すなわち彼の赴任前だった。しかし、非常に時日が接近していたことは確かである。その日付は彼の死を意味している。こういうとき人は、本能的にその「死=時日」から遠ざかろうとするのではないであろうか。私自身が「九月八日」と考えたがる千倍も万倍も、彼は、十月八日と考えたかったのではないか。自ら顧みるとき、それは少しも不思議でないようにも思われてくる。



向井少尉と同じ所に収容されていたK氏の「週刊新潮」への手紙を鈴木明氏に見せて頂いた時、私は向井少尉のこの「十五、六日」の謎がとけたと思った。(略)


彼もN大尉のように、本能的にこの日時すなわち死から遠ざかりたかったであろう。たとえ一日でも二日でも_。さらにこのかつての上官の親切に感泣したと野田少尉も記し、K氏も二人が声をあげて泣いたと記している。



溺れる者はワラをもつかむというが、死を宣告された者は、前にトラック島のI兵曹のところで述べたように、万分の一の生の可能性でも、それ目掛けて脱兎の如くとびつき、助かったと思いたがるのである。」



〇あの揚子江で十二丁の機関銃の前に座らされ、20分間銃撃されて殺された中国の人々が、どれほど無残な状況だったのかを何度も何度も思います。
あの番組を見て以来、そのことばかり考えてしまいます。


しかも、それが「南京虐殺」とされ、責任者はこの向井・野田少尉だとされる。
そして、向井・野田少尉が関わっていたはずがない、と実証されると、
今度は「南京虐殺はなかった」とされる。


NHKスペシャルノモンハン責任なき闘い」を見てもやりきれない気持ちになりました。証言している、もとの将校たち?が皆、何か井戸端会議で世間話でもするように、気楽に話しているのにも、唖然としました。

そして、本来、一番責任があるはずの、作戦を立てた当人は、責任を免れ、
現場で命を賭けて戦っていた中で、食糧も武器もなく、これでは全滅するしかない、と撤退を判断した真っ当な指揮官が、(責任を取って)自決するところに追い込まれるのです。

もう、日本のトップの人間は、叫び出したいほど、汚くて卑怯な人間ばかりです。