読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (最後の「言葉」)

「私自身は、そういう奇妙な「反省」なるものを、はじめからはっきりおことわりしておく。反省とはその基準を自らの内に置くものだから、たとえ世の中がどう変わろうと、私は、今まで自分が書いて来たことに対して、浅海特派員が自分で書いた記事に対して自ら採ったような態度をとる気は毛頭ない。「週刊新潮」には次のように記されている。




<便乗主義者にとって最もやっかいな相手は、自分自身の言動なのであった。最後にもう一度、浅海氏が発言を求めて来られたので加える。

「戦争中の私の記者活動は、軍国主義の強い制圧下にあったので、当時の多くの記者がそうであったのと同じように、軍国主義を推し進めるような文体にならざるを得なかった。そのことを私は戦後深く反省して、新しい道を歩んでおるのです」>


これが「反省」なのか、これが「反省」という日本語の意味なのか。もしそうなら、こういう意味の「反省」をする気は私には毛頭ない。



また「懺悔」という言葉もさかんに口にされた。しかしこの言葉が、「罪と罰」にあるように「四つ辻に立って、大声で、私は人を殺しましたという」といったことを意味するなら、この「百人斬り競争」という事件だけをとってみても、一体全体どこに懺悔があるのか。



四つ辻に立って、大声で、私は虚報を発して人を処刑場へ送りました、といった人間が、関係者の中に一人でもいるのか。もしいれば、それは懺悔をしたと言えるであろう。

だが、そういうことは、はじめから関係者のだれの念頭にもない。それどころか、虚報をあくまでも事実だと強弁し、不当に処刑場に送った者の死体を自ら土足にかけ、その犠牲者を殺人鬼に仕立て上げているだけではないか。

それは懺悔とは逆の行為であろう。


また本多勝一記者の「殺人ゲーム」を読んで、多くの人は「こういう事実を全然知らなかった」と言った。そういっているその時に、まだその人自身が、実は自分が何の「事実」も知っていないことになぜ気付かないのか。


それでいてどうして、戦争中の日本人が大本営発表を事実と信じていたことを批判できるのか。「百人斬り競争」を事実だと信じた人間と「殺人ゲーム」を事実だと信じた人間と、この両者のどこに差があるのか。



こういったさまざまな問題の解明に対して、向井・野田両氏は、その生命にかえて実に貴重な遺産をわれわれにおくってくれた。またK氏はよくそれを持ち帰ってくれた。それがなければ「百人斬り競争」も「殺人ゲーム」も、そしてその他のこともすべて「事実」として押し通され、結局すべては戦時中同様にわからずじまいで、探求の手がかりが何一つなかったであろう。しかし処刑の直前によくこれだけのことが出来たと思う。



向井・野田両氏のような運命に陥れば、人はもうどうする事も出来なくなるのが普通である。自分が無実で、虚報で処刑されることは、その本人たちが誰よりもよく知っている。そしてそれゆえに、余計にどうにもできなくなる。


何を言っても、何をしても無駄だという気になってしまう。(略)
一切は奪われている。法の保護も、身を守る武器も、そして最後には自分の精神さえ。



しかし、その時、はじめて人は気づくのである。すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。


それは言葉である。
もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。



処刑は目前に迫っている。確かに、言葉で戦っても、もう無駄かも知れぬ。発言は封ぜられ、その声はだれにも届かず、筆記の手段は奪われ、たとえ筆記しても、それはだれの目にもふれず消えてしまうかも知れない。



しかしそこで諦めてはならない。生き抜いた者はみなそこで踏みとどまったし、たとえ処刑されても、その行為は無駄ではない。「どうせ死ぬ」のだからすべての行為は無駄だというなら、すべての人はおそかれ早かれ「どうせ死ぬ」のであり、それなら人間の行為ははじめからすべて無駄なはずである。



従ってその死が明日であろうと十年後であろうと三十年後であろうと、それは関係ないことである。
誤っていることがあるなら、自分の誤りを含めて、それを申し送っていくことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれもわからないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取り上げて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである_現に、ここにある。」


〇 山本氏は、無実を証言してほしいと頼んできたN大尉の依頼を、その事情が、よくわからないままに、断わってしまい、結果、N大尉が処刑されてしまったことで、とても後味の悪い思いをしているのだと、知りました。

その「反省」や「懺悔」の気持ちが、あったから、
無実の罪で処刑された向井・野田両氏の言葉を取り上げて、すべてを明らかにしよう、と尽力したのかな、と思ったりしました。

でも、この一連の登場人物は、誰もみな、浅海記者、向井・野田両氏、そして、この山本氏でさえも、間違ったり、うまく対応できなかったりしています。

この時点での、山本氏は、「南京大虐殺などない」という主張をしていたわけで、前回書いた、NNNドキュメントを見た人間には、山本氏だって、間違っているのでは?と思います。


だとしたら、本当のことはだれにもわからない。事実がどうなのか、調べても調べても、実はそれは、違っているのかも知れない、という結論になり、

「私たちには、何かを、責任をもって主張することなど出来ない」

という態度にもなりかねません。


そして、どうせ何もわからないのなら、そんな不愉快な世界には、
目を向けず、もっと楽しい日々の趣味に没頭している方が、
ずっと、健全に暮らせる、という態度にもなりかねません。


私は、時々そうなってしまいそうになります。

そして、案外、この日本という国の多くの人々も、大昔からずっとそういう気持ちで、政治に無関心になっていったのかもしれない、と感じます。

それでは、ダメだ、と分かっているのですが…。