「私のいいたかったことは、男にとっても女にとっても顔立ちの良さ、悪さが、生涯の幸、不幸に大きな影響を与えるということであります。(略)
私は、世間一般が用いている「幸福」という言葉を、そのまま不用意に使ってしまったのがいけなかった。自分でたびたび、真の幸福と世間でいう幸福とは違うということを強調しておきながら、つい、そういう失敗をしてしまいました。ここに訂正いたします。人は美しく生まれついただけで、ずいぶん得をする、あるいは世間でいう幸福な生涯を送り得る機会に恵まれている、と。
しかし、次に私が言いたかったことは、醜いと損をするということ自体よりは、そういう現実からけっして目をそらすなということであります。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、実は誰だって、顔の美醜が現実社会では大きな役割を果たしていることを承知しているのに、というよりは、よく承知しているからこそ、わざと眼をそむけたいという気持ちが働くので、それがかえって人々を不幸に陥れるもとになると思うからです。」
「顔の美醜にかぎりますまい。こういう心理はいたるところに見られます。貧富もそれです。美は持てるもの、醜は持たざるものです。世間に出て行って、金のあるものが貧乏人より、他人からちやほやされるという事実は、どうしても否定しがたいことです。
貧富の差をなくしても、また他のところで優劣が出てくるでしょうし、どんな世の中がきても、優者と劣者とがある以上、優者の方が劣者よりもてはやされるということは、どうにもしかたのないことなのです。
先年、私の次男がペルテスという骨の病気にかかって、ギブスをはめさせられられました。この頃ではどうやらよくなりましたが、当初はへたをすると生涯びっこの不具者になるかもしれないといわれたのです。
そのとき、私と家内とが、おたがい口には出しませんでしたが、暗黙のうちに諒解していたことは、不具は大したことではない、困るのは、そのために起る心のひがみだということでした。
いつか私は子供と二人きりのとき、いってやりました。友達が「びっこ」といおうと「かたわ」とからかおうと、平気でいるんだよ。じっさいそうなんだからな。みんな意地悪でいうんじゃない。おもしろいからいうのさ。おまえだって、そういう友達がいたら、からかうだろう。それだけのことだ。
みんなおなじ人間じゃ、つまらない。なかにびっこがいてもいいさ。そういうと、子供は無邪気なもので、「うん」とうなずいて笑っていました。(略)
私は自分のとった態度を別に自慢してお話しするわけではありません。第一、私にとって、それは計算のうえの手管ではなく、その手しか私にはできなかったまでのことですから。ただ結果は大成功だったということを、みなさんにお伝えしたいのです。
これは、さっき例にあげた女性の心理とは正反対のものです。私の原理は大変簡単なもので、醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけないということです。貧乏人に生まれたものが金持ちのように大事にされることを望んではいけないということです。不具者が健康人のように扱われぬからといって、世間を恨んではならぬということです。(略)
私の考え方には救いがあると思います。私は「とらわれるな」といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです。
そういうと、顔はまずくともかまわない、心がけが一番大事だというひとがある。私はそういうことを言っているのではありません。これはマイナスだが、ほかにプラスの点もある。そういう考え方で、自分を慰めようとしてはいけないのです。その手でいったのでは、自分のマイナスについてのひがみは消え去りません。
それに眼をつぶって、他のプラス面だけを見ようとするからです。眼をつぶっても、現実は消滅しっこない。むしろそれは、無意識の領域にもぐりこんで、手のつけられぬ陰性のものと化しやすい。それがひがみであり、劣等感であります。」
〇いつも思うのですが、「醜」はともかく、「貧」や「不具」などについては、
本人の捉え方と、世間の捉え方の両方について、考える必要があるのではないか、と。
ここで、福田氏は、本人の考え方について話しています。自分のマイナス面をしっかり見て、捉われるな、と。
それは、わかるのですが、「世間」の方については、一切触れていません。
世間は、不具者をからかう。世間は、貧者を蔑ろにする。
確かに、現実はそうです。そして、福田氏は、そのことを諦め、受け入れるしか無いこと、と思っている。
ここに「日本」を感じます。
本人は、世間に何も求めない。
それをいいことに、世間は、「持たざる者」に何もしようとしない。
この考え方からは、社会福祉などという考え方は絶対に出て来ないだろうな、
と思います。
「あたしは自分の才能と実力とで、世の中を生きて来たと自他共に許す「精神的なる」女性が、映画女優やお妾や、その他、概して顔の魅力で得をしている「肉体的なる」女性に示す意地悪さ、これほどいやなものはありません。
御当人は、自分のマイナスを棄ててプラスを助長せしめたと思い込んでいるのかも知れませんが、実は、これこそ逆さにされたひがみにほかなりません。ひがみは、現実敗北した不平家を生むと同時に、頑ななつめたい勝利者をも生むのです。
人間の心理というのは、自分のことながら、いや、自分のことであればこそ、よほどうまく操らないと、しまいには自分でも操り切れぬ手に負えない存在と化してしまうものです。はじめの出発点が大事です。
まず自分の弱点を認める事。また、たいていのひとは、自分の長所よりはさきに弱点に気がつくでしょう。そしたら、それをすなおに認める事。そして、それに拘らぬよう努める事。そうすれば、他に埋め合わせの長所を強いて見つけようとあがかなくても、その素直な努力そのものが、いつのまにか、あなたの長所を形作っていくでしょう。むりに長所を引っ張り出そうとしなくても、現実の自己に甘んじる素直さそのものが、隠れた長所をのびのびと芽生えさせる苗床となるでしょう。
〇 これは、多分、そうなのだろうなぁ、と思います。
でも、もう少し具体的に考えてみます。
醜かったり、貧乏だったり、不具者だったりする。それを素直に受け入れようとする。
でも、その時に、それをからかわれ、ばかにされ、不公正な扱いをうけること等、が重なると、どんなに、素直に受け入れようとしても、
気もちは折れてしまうと思うのですが。
個人の心構えだけが、問題にされるところに、問題はないのか?と思ってしまいます。
「ある娘さんから聴いた話ですが、自分のクラスのものが二人、ある出版社の試験に応募した。ひとりはクラスで一番の成績をもった子で、もうひとりは大して、できない子だったそうです。
ところが、第一次の書類と写真との審査で、出来る子の方が落第で、できない子のほうがパスしてしまった。その子が美貌だったからです。クラスの者たちは、最近、寄るとさわるとその話をしている。これから世の中へ出て行こうとする娘さんたちは出鼻をくじかれた気持ちになっているというのです。
その娘さんのことばを借りれば、「社会が信用できない」というのです。
それでは困ります。若い時の理想主義、いやこの場合はむしろ世の中を甘く見た空想というべきでしょうが、ひとたびそれが破れると、今度は社会を呪うようになる。
それがひがみでないと誰がいえましょうか。一見、正義の名による社会批判のように見えても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。
なにより困る事は、それによって傷つくのは、社会のほうでなく、自分自身だということです。」
〇 出版社の基準が、「成績が良い子」よりも「美貌の子」ということだったということなのかもしれませんが、ひょっとしたら、コミュニケーション能力等の違いがあったのかもしれない、と想像します。
就職に関しては、それもあるだろうな、と思います。
先日の東京医大の女子への不正とは違うと思います。
「だから、私は、生まれながらにして、どうにもならぬことがあると言っているのです。いくら努力しても徒労に終わるひともあり、難なく出世するひともあるといっているのです。
そういう社会を徐々に良くすることも必要ですが、いくら良くなっても、程度問題で、不公平のない社会はこないし、また、それが来ようとこまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生き方であり、幸福の掴み方であると言えないでしょうか。
それにもう一つ考えておかねばならぬことは、美人なるがゆえに大損をする例が非常に多いということです。
男に持て、ちやほやされていい気になっているうちに、いつの間にか年を取ってしまったこの元美人は、それまで外面の美に寄り掛かっていたため、中身は何もなく、心が貧しくなってしまっていて、年輪の美しさが少しも感じられない。
親から貰った遺産で居食いしていたため一文無しの乞食になってしまったようなものです。長い目で見れば、美人に生まれ付いたこともまた不幸のもとになりうるのです。」
〇昔、この本を読んだ時は、このような考え方がすんなりと受け入れられたのですが、今、読むと、いちいち引っかかります。
社会のあり方については、少しも触れず、「正義を振りかざして、社会の問題を指摘する態度は、良くない」とする姿勢ばかりが気になります。
私の方が変わったのだと思います。