読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (三 自我について)

「個人の魅力について多くの人が誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別ものだと考えたがることです。外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、この二つのものは別物であるどころか、実は心にくいほど一致しております。人相を見れば、その人柄は大体わかります。そういうものなのです。」




「まえにも書いたことがありますが、戦後の若い人たちはよく「騙された」という言葉を濫用しました。戦争中、軍人たちに、国粋主義者たちに、町や村の指導者たちに、ことごとく騙されたという。私に言わせれば、理由は簡単です。人相と人柄との究極的な一致という原理を無視したからにほかなりません。語っている人物の人相より、語られた言葉の内容の方を信じたからにほかなりません。



もっと厳密にいえば、ことばや文章にも、外形的なものと内面的なものとの両面があります。文章にも人相と人柄とがあるのです。語る調子やリズム、すなわち文体が、その人相にあたり、語られる意味内容が、人格にあたると考えられましょう。


もし戦争中、若いひとたちが、言葉や文章の調子や文体という外形的なものから、その真偽を判断する訓練を受けていたなら、戦後になって、「だまされた」などという苦情は出なかったはずです。」


〇 これは、少し視点がずれているように感じます。「騙された」というのは、言葉や文章に騙されたのではなく、当時吹き荒れた「国粋主義旋風」「軍国主義旋風」の「風」に吹かれて、考え方や生き方が「持って行かれてしまった」、ということを言っているのだと思っていました。

戦争が始まってしまうと、例え、最初は戦争反対と言っていた人も、
もう、そんなことは、言っていられなくなる。

負ければ、斬殺される、と思えば、勝つために、頑張るしかない。

勝つために頑張る、ということは、
兵隊さんを「万歳!」と言って送り出し、「欲しがりません、勝つまでは」と言い、
「贅沢は素敵だ♪」などと言う人を「非国民!」と罵倒して、
全国民が団結して力を合わせて鬼畜米英をやっつける!と決意しなければ、
ならなかった。


戦争中は、そうして「騙されていた」ということだと思います。

誰も戦争などしたくなかった。
戦争に考え方も生き方も、持って行かれてしまったから、騙された、といっているのだと思います。


「私自身、ひとに対する好悪を決めるのに、いままでつねに人相に頼ってまいりました。それでまちがったことは一度もありません。もちろん、私のいう美しい人相は映画俳優的な美男美女を意味しはしないこと、お断りするまでもないと思います。」

〇人を見る目がある人というのは、いると思います。でも、私自身はあまり、人を見る目はないような気がします。自信はありません。特に最近の政治家を見ていると、小泉さん、安倍さん、小池さん等々、もっと、イイ人かと思っていたので、自信がなくなります。


「以上、あまりに容貌に拘り過ぎたように思いますが、私の幸福論をなぜ容貌の問題から始めたかというと、私は、世の中にはどうにもならないことがあるということを言いたかったからであります。



しかも、そのどうにもならないことが、人生の瑣末事に現れるならまだしもですが、ほとんど決定的な場所に、それは現れる。色々努力したあげくに、自分の力ではもうだめだという限界点に達するのではなく、私たちは最初からこの限界を背負って出発するのです。



そう考えている私は、いわゆる「平等」とか「自由」とかいうものを信じません。私には私なりの自由、平等の観念はありますが、それはあくまで世間でいう「平等」や「自由」を否定したあとに出てくるおのです。



ですから、私はまず世に言う「平等」と「自由」が虚偽でしかないということから話をすすめようと思います。」


〇 ここで福田氏がいう、不平等も、あの夜回り先生に出て来た不平等と
同じものだと思います。

何度も繰り返して恐縮ですが、この認識がない時、人権の理解はできないと思うので、また、載せます。

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。」


「この自我意識は、社会とか国家とかいう家庭よりももっと大きな集団にぶつかることによってさらに強化され、明確化されるでしょう。それにともなって、反抗意識も強くなります。そのとき自由平等という観念が皆さんの脳裡に浮かぶのも当然です。


反抗意識が自由平等の観念をよびおこし、自由平等の観念が、また逆に反抗意識を補強するのです。そういう時期は大切です。この反抗の時期を持たぬままに成長した人間を、私は信用することができない。それは何かが欠けていることです。



同時に、そういう時期においても、皆さんは次のことを知っていなければならないと思います。さもないと、あとで酷い目にあうでしょう。それは何かというと、まえにも申しましたように、私たちは自由でも平等でもないということです。私たちが個人の自由と平等に思いついた時は、じつはもう手遅れで、そのころまでには、私たちの自我は、遺伝や環境によって、ほとんど身動きのとれぬほどに決定されてしまっている。



皮肉な話ですが、どうすることも出来ません。極端にいえば、私たちは自分の自由意志で生まれてきたわけではない。私たちには何国人にうまれる自由もなければ、父母の人格や職業や階級を選ぶ自由もない。そもそも「うまれる」という言葉は「うむ」の受動態で、「母が私をうんだ」の受動態が「私は母によって生まれた(うみだされた)」となるのですから、人間は出発点から受動的であり、自主的ではないのです。」




「また共通の教育を受けたといっても、人間の人格、たとえば攻撃的な強い性格とか、ひっこみ思案ばかりしている性格とか、そういう本質的なものは、自由平等に気づく成年期には、もう動かしがたいものになっているでしょう。



その人の幼年期における家庭の状況によって、全てが決定済みです。その家庭の貧富の差はもちろん、それよりも父母やその他の家庭の成員たちの性格、および人間関係が、幼児の性格構成に大きな影響を与えるのです。



社会や家庭という自分以外のものの存在に気づき、それによって自我意識が生じるとともに、今度は逆に自我の敵として社会や家庭を捉え始めるのはいいのですが、もう少し、その自我意識を徹底させていってごらんなさい。



ままにならぬのは、家庭や社会ばかりではなく、ほかならぬ自分自身だということに気づくでしょう。



同じ条件、同じ機会を与えられても、だれか他の人のように、それをうまく利用できない自分、あるいはその反対に、他人よりはうまくそれを利用しうる自分、そういう自分というものに気づくでしょう。また、性懲りもなく、おなじ過ちを繰り返す自分、いやになるほど同じようなことに腹をたてたり、同じようなことに憂鬱になったりする自分、そういう自分のしょうことなさに気づくでしょう。



このまえ、人格というものも、顔の美醜と同様、努力次第で簡単に変えることのできぬものだと言ったのは、そういう意味においてであります。



さて、ここまでくれば、宿命というものについてお話できる用意がみなさんの内に出来たろうと思います。といって、私はなにも暗い厭世観を宣伝しようというのではありません。依然として、私の目的は幸福論にあります。」