読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (四 宿命について)

「私たちの前に、私たちを超える大きな力を認め、私たちの生涯はそれによって絶対的に支配されているのであって、逆に私たちの方でそれを動かす自由はない。それが宿命論です。



この考えを押し詰めていけば、当然、決定論になります。歴史の一こま一こまは、それが起る前に、すでに決定されている。その必然的な因果関係は、どうしようもないものだが、ただ私たちがそれを見抜くことができないため、未来にいろいろの可能性があるように見え、そのどれか一つを選ぶ自由があるような気がするだけだ。


決定論の立場に立つとそうなります。」



ルネサンス依頼、人々の心に目覚めた自由の観念は、十八世紀末から十九世紀初期の浪漫主義時代において、ほとんど最高潮に達した観があります。しかし、それは永くは続かなかった。すぐ幻滅の時代がやってきました。



夢見る時代のあとに、幻滅の時代が続くのは、心理的にいっても、ごく自然のことであります。」




「こういう自由の観念は、さきほども言ったように浪漫派において、その最高潮に達しました。が、考えようによっては、浪漫主義における徹底的な人間賛美、自由思想、自己主張は、いわば暗い前途を予感したうえでの、最後のあがきとも言えるのです。(略)




そのようにして、希望に満ちた浪漫主義の時代を受けて、自然主義の幻滅が訪れたのであります。(略)



宿命という観念は、この自然主義時代の末期的産物であります。少々大雑把に申しますと、浪漫派詩人にとって、恋愛は、人間、および恋する自己を権威あらしめる、神のごとき、完璧な精神の愛でした。それが自然主義時代の小説家や劇作家にとっては、たんなる肉体的な衝動にすぎず、環境と遺伝とによって決定されたもので、それらに対して精神はまったく無力なものと見なされたのです。



美しい恋愛物語はなくなり、その代わりに、大酒飲みの放蕩者が、自分の欲望の赴くまま女中に生ませた子供が、成長して、同じように大酒飲みの放蕩者になり、ふたたび女中に子を生ませるというような話が流行しました。


今日、宿命論というと、たいていの人がそういった因果物語を連想します。ことに日本人の血のなかには仏教的宿命観が根強く植え付けられているので、それからようやく這い出して、ほっとしている現代人には、宿命という言葉を耳にしただけで、何か忌まわしい亡霊に出遭ったような気がするのでしょう。



だが、安心して下さい。お断りしたように、私はそんな意味の宿命論をお話しようというのではありません。」



「封建時代の日本の切腹を現代人はばかばかしいと思うでしょうが、キリーロフの自殺はそれ以上にばかばかしい。切腹は自由意志によるものではなく、処刑では当人の名誉を傷つけるということで、切腹を命ずるのですから自殺といえません。


しかし、キリーロフのように自分の思想にしたがったところで、死んでしまえば、その自分はいなくなるのです。死を征服した自由の喜びを味わうことができません。そればかりでなく、そういう思想にとりつかれたキリーロフの自由は真の自由とはいえず、やはり一種の宿命にあやつられていたものとしかいえますまい。」



「それにもかかわらず、私が宿命ということを強調せずにいられないのは、今日あまりに自由という観念が安易に通用しているからです。そして、その安易な流行のおかげで、多くのひとびとが不幸になって行くのを眼のあたり見せつけれらるからです。



自由を説き勧めるひとたちは、それが商売ですから、繁昌すれば、多少は幸福にも慣れましょうが、その人のいうことをきいて、そのとおりに行動したひと、あるいは、なるほどと思いながら、そのとおり行動できぬため自分をつまらぬものに思い込む人、そういう人たちが多くなっていくのは困りものです。



そこで、私はみなさんに、いわゆる宿命論ではなく、宿命ということをそのことについて、改めて考え直していただきたいと思うのです。」



「さて、人はどういうふうに、またなにゆえに宿命を欲するか。この問いにたいして、私は二つの答えが与えられると思います。第一は消極的なものであり、第二は積極的なものであります。



まず第一のものについて、お話いたしましょう。いま申しましたように、自由というものは、なにかをなしたいという要求、何かを成しうる能力、何かをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられていなければなりません。



「大学」という本のなかに「小人、閑居して、不善をなす」とありますが、それは「つまらぬ人間に暇を与えるとろくなことをしない」というほどの意味です。



小人とは、いいかえれば自己の内部に激しい欲求、豊かな能力、強い責任感をもたない人のことです。ですから、そういう人たちは、自由な暇が与えられても、何をしていいかわからない。何をする理由も、手がかりもない。したがって、つい、くだらぬことに手を出しやすいのです。


私たちはたいていその小人に属します。何かをする理由や手がかりを、自分の内部にではなく、他に求めようとする。その方が楽なのです。が、そのときに、宿命というやつが、私たちに甘い囁き声をおくらないでしょうか。


さっき例にあげた自然主義時代の小説ですが、それを読んだあとで、大酒飲みの放蕩者を父に持ったどこかの子が、自分が放蕩者になるのを、宿命の名によって許すことがないとはいえますまい。



また精神分裂病の遺伝の持ち主が、自分の性格のささやかな特徴を楯にとって、怠惰と無気力とのなかに安住することがないとはいえますまい。」


〇 ここを読みながら、福田氏は一体なにを言いたいのだろう、と思いました。
私たちのほとんどは、小人なので、自由など求めない方が幸せでいられる、と言ってるのでしょうか。

要求も能力も責任も持たない小人である私たちは、自由を与えられた時、その要求の貧弱さに落ち込み、能力の無さに、自己嫌悪になり、更には、責任も果たせない情けなさに、「そのとおり行動できぬ自分をつまらぬものに思い込む」。
それは、不幸だ、と。

今の、私自身の姿を言い当てられているような気もちになりました。
つまり、民主主義を与えられても、少しも自由意志を持つ市民として行動できない、
自分の姿にがっかりするだけだと。

ただ、話が少し飛躍するのですが、
少し前に放映された、NHKスペシャル「人体」 脳すごいぞ! ひらめきと記憶の正体 の中で、とても印象的だったのは、脳は、ぼぉ~っとしてリラックスしている時に、一番活発に活動している、ということです。

つまり、何もしない、人から見ると「ろくなことをしていない」時にも、
ちゃんと活動しているのです。

逆に言えば、ぼぉ~とさせないでおこうと、ぎっしりスケジュールを詰め込んで、キチキチに脳を使っているだけでは、ダメではないのか?と思いました。どうなんでしょう。


民主主義を与えられたことによって、確かに今、私たちは苦しんでいます。
思ったほど、理想的に民主主義を使いこなせない。
情けないなぁ、と思ってがっかりもします。

これが、戦前のような大日本帝国憲法の下、民主主義はなく、立憲君主制で、我らは天皇の臣民として、何の責任もなく、ただただ、お上のやり方を嘆いていれば、その方が、楽で良かった、ということなのでしょうか。