読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

(五 自由について)を読んで思ったこと

〇 この項目を読みながら、共感できる部分と、疑問に思う部分が、交錯して、
いまいちスッキリしません。一つ一つ、思ったことを書いてみたいと思います。

どうせ失敗してしまったなら、それが宿命的なものであって、自分の力でどうとりかえしのつくものでもないと考えた方が、諦めがつきやすい。つまり気が楽というような時が

〇 子供の頃は、自分が、同級生の「あの子」のように、かわいくない、ということについても、自分に責任があるように感じていました。
内気で、人前で意見を言えない、このことの責任は、多分自分にある。でも、容貌が綺麗じゃないことは、私自身のせいではない、とそのことで、自分を責めない気持ちになったのは、多分、40歳を過ぎた頃ではないかと思います。

自分自身ではどうにも出来ないことについても、何故か、漠然と、自分に責任があるように感じてしまう、これは、とてもおかしなことではないかと思います。

そして、自分について、そう思うということは、心の底では、人についても、そう思っている、ということです。

美しい人は「価値のある」人。不細工な人は「価値のない」人。
かしこい人は価値がある。頭の悪い人は価値がない。
成功した人は価値がある。いわゆる「負け組」は
価値がない。金持ちは価値がある。貧乏人は価値がない。


口に出しては言わなくても、
心の底には、そんな考え方が根強くある。
基本的人権の「理想」は語られているけれど、心の底では、そんな風に考えている自分がいるということは、多分、他にもそう考える人間は、たくさんいて、理想と現実の狭間で、本音と建て前を使い分けている。

その時、どういうことが起こるかというと、

ここで、福田氏も言っているように、

「私たちのうちには、いつでも成功したいという気持ちが隠れております。(略)
もっと小さなこと、たとえば、みなさんが学校でいい成績をおさめたいと思うこと、先生の質問に適切な答えをしたいと思うこと、競技で敵を破りたいと思うこと、さらに学校を出て、いい所へ就職したいと思い、好きな人に愛されたいと思い、職場でも、交友関係でも、家庭でも、無くてはならぬ人になりたいと思う。


つまり一口にいえば、どこでもかしこでも「いい子」になりたいということであり、どんな小さな行為でも、やろうと思っててをつけたことは、うまくやりとおしたいということであります。それは人情の自然で、誰にもあることです。」

というのが、普通の気持ちだとすると、うまくいかない、うまく出来ない状況になった時、その責任は、全て自分自身にある、ということになってしまうのです。

うまく行っている時は、自分はなんて素晴らしい人間なんだろう、と天狗になり、
失敗すると、最低最悪の人間だ、と絶望する。

若い頃、私はほとんどその繰り返しでした。

でも、ここで、福田氏が言っているように、それが、私自身のせいではない、もともと、そう生まれついているのだ、とわかると、私の責任は、半分くらいに減ります。

この私という限界状況の中で、精一杯努力する、
そう考えるようになって、本当に気持ちが楽になったのです。

「なぜ気楽かといえば、自分の力でどうにもならない以上、みなさんは何もしなくていいからであります。これは怠惰と無気力の証拠でありますが、これが徹底しますと、いっそのこと早く失敗してしまった方がいいと望み出すのです。」

〇「怠惰と無気力」、確かに、そういう部分はあります。でも、怠惰・無気力が許される状況で、にもかかわらず、何かをやる、やらずにはいられない、そうなった時、初めてそれが、自由意志に結びつくのではないかという気もします。

ここで、あの「不思議なキリスト教 」の(予定説と資本主義の奇妙なつながり)を思い出します。引用します。

「そうすると、人々が救済予定説を信じる社会では、だらだら自堕落に暮らす人ばかりになってしまいそうです。でも、そうならない。
どこに秘密があるかというと、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したいから。


地上の自分の利益を考えて行動すると、自堕落に暮らすことが支配戦略になる。そういう状況で、もしも勤勉に働いている人がいたら、それは神の恩寵(恩恵のこと)によってそうなっているのです。勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。この状況で勤勉なことは、神の恩寵の表われです。となると、自分が神の恩寵を受けていると確信したければ、毎日勤勉に働くしかない。」

〇 ここでは、神の恩寵を証明したいがために、勤勉になる、というふうに言っていますが、「救いはもう決まっているので、自堕落にしていてもいいのに、何故か勤勉になる」ということと、私の実感した、「上手くできるか出来ないかの責任は、私だけの責任ではない(多分に持って生まれた資質や運も関係している)と分かっているからこそ、精一杯頑張れる」ということが、似ているような気がするのです。

それが、福田氏の言う

私たちは出発点に於いても、また終着点に於いても、宿命を必要とします。いいかえれば、初めから宿命を負って生まれて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。」

ということなのだと、思うのですが、この文章だけを読むと、
家父長制の家の中で、親の言いつけに従って、宿命を受け入れ、多少の不満があっても、屈服して生きる時にこそ、のびのびと生きることが出来る、言われているように
感じて、嫌な感じがしたのです。