読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (六 青春について)

「戦後、間もなくでしたが、「失われた青春」という言葉がはやりました。いうまでもなく、戦争の為に青春を過ごすことのできなかった人たちのために作られた言葉であります。


そういえば、「失われた世代」という言葉もありました。この方は第一次大戦後、欧米でも使われた用語で、やはり戦争のために人生の理想や目的を見失った若い世代のことを意味します。」



「青春だの世代だのというものが、戦争の為に失われてしまうなどということがありえましょうか。また戦争さえ終われば取り返されるものでしょうか。その辺が私には納得できません。なぜ納得できぬかというと、もし戦争のために青春が失われたと言うなら、すなわち、楽しい青春が享受できなかったというなら、それは何も青春だけにかぎりますまい。若い人だけにかぎりますまい。老人もまた同様だったのです。」



「とにかく、この前の大戦では、老年も壮年も青年も子供も、みんなひどいめにあっているのです。(略)ただ、徴兵適齢期の男の子だけと、彼らと結婚したであろう女の子たち、現在の三十代の女性の大部分は、。たしかに不幸だったといえましょう。



だからといって、「失われた青春」などと言うべきではありません。まして、その青春を失ったのは誰のせいかなどと抗議し、「大人への不信」を表明して見せるなど、まったく無意味なことだと思います。(略)



それはたんに題目として格好だということにすぎないということであります。ことに青少年を相手とした雑誌では例外なくそういえます。「失われた老年」「青年への不信」よりは、特集記事として体裁がいいのです。もっとはっきり言えば、売り物になるのです。本や雑誌を読むのは、青少年が大部分です。ジャーナリズムは、数の少ない、しかも読書に興味を持たなくなった老人を相手にしていたのでは、あまりもうかりません。


だが、皆さんは、それらの記事に甘やかされ、いい気になってはいけません。新聞雑誌の特集記事で、「失われた青春」が取り戻せるものではないし、「大人への不信」を当然だと言われたところで、皆さんの生き方に励みがつくものでもありません。



そうした特集記事は、まずみなさんに飴玉をじゃぶらせるためのものと思って間違いないでしょう。私の友人の哲学者がこんなことをいいました。




「議会政治というのは、国民の代表に勝手なことをいわせ、自分たちの手で自分たちの国がどうにでも出来るという錯覚を利用して、実は政府が勝手なことをするための玩具さ」と。青春を甘やかすジャーナリズムの一部には、これと同様のことがないとはいえません。」



「戦争がひどくなって、それらの、いわゆる青春の小道具は、かたはしから無くなって行きましたが、だからといって、私は青春が失われつつあるとは感じませんでした。そればかりではありません。言論の自由さえ失われるようになったのですが、それでも、青春が失われたという実感は持たなかったのです。



就職難も私から青春を奪うことは出来なかった。なぜでしょうか。理由は簡単です。私は、若かった。そのころの自分の一時期を、一度も青春という言葉で考えてみたことがなかったからです。(略)


私は自分の青少年時代を顧みて、私の青春を私自身に気づかしめずにいてくれた両親や教師や社会に感謝したくなります。また、彼らが私に青春を押し付けなかったばかりでなく、私自身が無関心でいたことを、結果としてはいいことをしたと思っています。



ですから、私はみなさんにもその手をおすすめしたい。「失われた青春」などという考え方をそのまま受け入れると、皆さんの中で、青春という概念が不均衡に大きくなります。その結果、本来は青春とは無縁のものまで、いや、そういうものばかりを、青春だと思い込み、それが自分に欠けているがゆえに、自分は青春を楽しめないとひがむようになるのです。そのときこそ、皆さんは、本当の意味で青春を失ってしまうのです。


のみならず、青春の本質とはかかわりのない薔薇色の青春にうつつをぬかしている人たちは、それを失ったとたんに、急に老け込むのです。」



「この種の、大人の裏を嗅ぎつける子どもの現実主義ほど、手に負えぬものはありません。彼は「給料のために働いている」先生の姿は見えても、その先生の、そうでない半面は見えないのです。あるいは、見えても見ぬふりをしているのです。人間は子供の現実主義で割り切れるほど単純ではありません。


ある偉い小説家は「なんのために書くか」と問われて「金と女と名声のために」と答えたそうです。「それなら、その男の書くものは読むものか」とはいえないので、金と女と名声のために筆をとったとしても、ひとたび机に向かえば、その小説家は本気で打ち込んでいるのです。」



「大人は不純で、青少年は純粋だというのは、はなはだ粗雑な考えようですが、これはいったいどこから来たのでしょう。私は自分の青年時代、少年時代を憶いだしてみて、青少年がそれほどに純粋だったとは、どうしても考えられない。



私はいろいろなことを知っていました。また感じていました。両親の口にのぼるお愛想や、その生活のしかたに、ときどきうそやずるさが混じっているのを、けっして見逃しはしませんでした。それだからといって、彼らを責める気にはならない。



彼らはうそをつかねば生きられなかったのだし、私自身、彼らの噓によりかかって生きていたからです。いや、それはあとから考えたことで、当時、青少年としての私が感じていたことは、大人たちは嘘ばかりついているのではないということ、純粋な面もあり、噓はつきたくないと思っているのだということ、さらに、その嘘の中にも一片の真実があるということ、最後に、私自身、その種のうそをつきかねないということでした。


私は総体として大人を信じていいと思っていました。そうはっきり意識しませんでしたが、実感はしていました。
そのころも、また大人になって今日にいたるまで、私は、なんどかその信頼を裏切られました。大人に限らず、信頼すべき人間はいないとまで思い込んだことは、たびたびあります。



しかし、私は性懲りもなく、又信頼する。人間は総体として信頼していいのだと思いなおすのです。



もし青春という言葉に真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だと言えないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失った人たちのものです。


たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。「失われた青春」などというひとは、若くしてすでに老いたひとです。大人や老年と区別して自分たちの若さを誇りたがる人たちも、いかにディスコやアルコールに浮かれていようと、すでに青春を失った人たちです。



青春を飾るあらゆるアクセサリーを失っても、暗い不信の念やひがみ根性さえ持たなければ、その人は青春を享受しているといえましょう。



一言でいえば、青春などと言う言葉にあまりこだわらず、まず人間としての自分の生活に熱中すること、それが一番大事だと思います。


それに熱中できない世の中ではないかと反問する人がいるかもしれない。それなら、どういう世の中であろうと、どんな不幸な目にあおうと、自他を信頼できる力こそ、青春のものだと申し上げましょう。


それは他人や社会に対する批判力に眼をつぶらせろということを意味はしません。懐疑し、批判し、裁いたのちに、なお残る信頼の力でなければならない。だからこそ、力といっているのであります。理屈ではありません。さらに付け加えるなら、その力が残らぬような懐疑や批判だったら、それはみなさんの手に余る危険なものです。構わないから投げ捨てておしまいなさい。」



〇 人は嘘をつかず、互いに正しいことをして、みんなで良い社会を作ろうとしている、という社会の大前提をメチャメチャに破壊したのが、安倍晋三という人です。そして、経済が好景気になっているかのように見せかけるために、マスコミや財界人がその安倍総理を支えています。


民主主義の根幹を破壊し、犯罪者を擁護し、犯罪を隠蔽する。一方で被害者を見捨て、道徳がたんなる建前でしかないことを、大人にも子供にも浸透させている。

そんな総理大臣を目の前にして、それを批判せずにいるのは、その犯罪に加担している共犯者だと思います。

それが、今のこの国の現状です。

それでも、基本的に私は、この福田氏の考え方が好きです。
社会のせいにするな、他人のせいにするな、というのは、
私たち日本人が好む考え方なんだなぁ、とあらためて思います。
そして、多分それは、そんなに間違っていない生き方じゃないかと思います。


というのも、「社会」も「他人」も、そんなに簡単に変えられるものではないからです。社会や他人のせいにしているかぎり、いつも不幸のままになってしまう。


社会や他人がどれほど酷くても、その中で、幸せでいられる方法はないものか、
そう考えて、この考え方になったのではないかな、と思います。

ここで、福田氏が言う、

一言でいえば、青春などと言う言葉にあまりこだわらず、まず人間としての自分の生活に熱中すること、それが一番大事だと思います。」

という言葉がいいと思います。

自分の前に道はない、自分の後ろに道は出来ると言った人がいます。
自分の歌を自分の耳で聞かないで、と言った人もいます。

「自分の生活に熱中する」のが大事なわけで、その状態に青春とかなんとか、名前はどうでもいい、と私も思います。

そして、あの「東洋的な見方」の中にあった言葉を思い出しました。

「人間が自分の生活を何かで締めくくっておくと、便利なことがあるので、この生命の形式化を重宝がる。(略)軌則は後から付けたもの。大用はそんなものにとらわれていない。とらわれているのは、死物だ、「自由」ではない、本物ではない。

この「自由」を再認識しなくては、本当の「日本人」にはなれぬ。「大用現前不存軌則」を記憶しておいてほしい。」


〇 「名前(青春)」の中に生活を押し込めるようにではなく、「修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る」ように生きられると「生活に熱中」できるのだろうと思いますが、なかなか難しいです。