読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (七 教養について)

〇 この本が印象的だったのは、この「教養について」の箇所が、
母との思い出に繋がるからです。教養ってなに?と訊いた子供たちに、
母は「人の身になって考えられること」という意味のことを、言いました。

それが、その後何度か教養という言葉に対して私が持ったイメージとは、違っていたので、印象深かったのです。

私の中の教養のイメージは、先ず、広い知識があることです。何でも知っていることです。どれほど他人の身になって考えられる人でも、アメリカの南北戦争がなぜ起こったか、とか、エンゲル係数とは何か、とか、社会の仕組みはとても複雑で、一面の真理だけで何かを判断するわけにはいかない時がある、ということが、まず、知識としてわかっていなければ、教養という言葉は使えないのでは?と思っていました。

そこで、まず、「新選 国語辞典 第六版」(小学館)にある、
教養についての項目を載せたいと思います。

「広い知識を身につけることによって養われる深く豊かな心」


この「教養について」は、全文を抜き書きしたいと思います。


「「教育がある」ということは、必ずしも「教養がある」ことを意味しません。それどころか、今日では、残念なことに、この両者は往々にして一致しないのであります。高い学校教育を受けた人ほど教養がなく、現代文明の先端をいく都会人ほど教養がない。そういいきって差し支えないものがあります。


では、教育と教養とはどう違うのか。一口にいえば、教育によって私たちは知識を得、文化によって私たちは教養を身につける。もちろん、元来は、教育は私たちに知識と共に教養を授けてくれるものだったのです。それがそうではなくなってしまった。



教育は文化と直接かかわりなく、教育が与える知識は文化から遊離してしまったのです。そういうと、不思議に思う人があるかもしれない。私たちが学校教育で得る読み書きの知識や、世界の歴史に関する知識が、どうして文化ではないのかと思うに違いない。



なるほど、文化史というものがあり、そこで私たちは様々な民族が生んだ絢爛たる
文化の様態に接します。が、それらは、すなわち法隆寺とか光琳の絵とかいうものは、一時代の文化の頂点をなすものにすぎず、文化とはそれだけではないのです。


水上に漂う氷山と同様に、私たちの眼には見えない大きな部分が、その下に隠れているのです。私たちが教育によって得られる文化史的知識は、いわば氷山の頭に関する知識であって、文化とはそれだけのものではない。



エリオットは「文化とは生き方である」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生き方があり、その積み重ねの頂上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。そして、その知識が私たちに役立つとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化がある時だけであります。



私たちの文化によって培われた教養を私たちが持っている時にのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときにだけ、知識が教養のうちに取り入れられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。




文化によって培われた教養と申しましたが、いうまでもなく、教養というものは、文化によってしか、言いかえれば「生き方」によってしか培われないものです。ところで、その「生き方」とは何を意味するか。



それは、家庭の中によいて、友人関係において、また、村や町や国家などの共同体において、おたがいに「うまを合わせていく方法」でありましょう。といって、この方法は、なにも個人個人がめいめいに考えるものではなく、個人が生まれる前から行われていたものなのであります。



が、誰もかれもが、その一般的な「生き方」を受け継いで、それ以上に出ないとすれば、その共同体は澱んだ水のように腐ってしまうでしょう。第一、それでは教養などというものの発生する余地はありません。


一つの共同体には、おたがいが「うまを合わせていく方法」があると同時に、各個人は、この代々受け継がれてきた方法と、自分自身との間に、また別に「うまを合わせていく方法」をつくり出さなければならないはずです。


いうまでもなく、そのめいめいの方法が、個人の教養を形作るのであります。つまり、一つの共同体には、それに固有の一つの「生き方」があり、また一人の個人には、それを受け継ぎながら、しかもそれと対立する「生き方」がある。逆に言えば、共同体の「生き方」を拒否しながら、それと合一する「生き方」があるのです。




そういう意味において、教養とは、また節度であります。力がただ一つの方向にのみ傾けられる時には、節度というものは不必要です。相撲に「うっちゃり」という手がますが、これをやられぬためには節度が要る。ただ一つの方向に力を出し切って押してもダメです。押しながら引いていなければなりません。



あるいは、いつでも引きの力に転化できる限度内で押していかねばならぬのです。
対人関係における美徳としての節度も、結局は相撲に置けると同様、まったく力学的なものであります。



ふつうに節度という時、それは「控えめ」の意味に使われる。なるほど、そういう意味には違いないのですが、それはけっして遠慮や自己否定を意味しはしません。常識のまえに自分を棄てるだけなら、まことに易しいことで、なにも方法は要らない。節度というのは、自分を主張するための方法なのです。そして、それを成功させるために、節度という力学的原理が必要となるというわけです。



ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」のなかにいい例があります。チャタレイ卿の奥さんであるコニーは森番のメラーズを愛し、かれと結婚しようと決心します。が、チャタレイ卿はもちろん、コニーの実家も貴族です。コニーの姉ヒルダは、貴族の娘と森番との結婚に反対する。



が、ヒルダはメラーズにはじめて会って、この森番が教養のある男であることを直感します。その時のことを、ロレンスはこう書いている。



かれはパンを切り終わると、腰をおろしたまま、じっと動かなかった。ヒルダは、かつてのコニーがそうだったように、その沈黙と孤絶とにこの男の力を感じた。テーブルのうえには、小さな、感じやすい、力をぬいた手がある。この男はたんなる労働者ではない。いや、どうして。かれは自分を演じているのだ!そう、演じているのだ!



なお、ヒルダは食事の最中、相手の様子をうかがいながら、この森番が「生まれながらにして、自分などより、ずっと繊細な、ずっと育ちのいい人間」であると感じざるを得なかったのです。


ここで私は、テーブルのうえに置かれた森番の「力をぬいた手」に、読者の注意を引きたいのです。さらに、「自分を演じている」という言葉に注意していただきたい。それが節度であり、教養というものなのです。



「自分を演じている」というと、お芝居じみて聞こえますが、もしそれが芝居じみたきざなものなら、むしろ演じそこなっているのであります。駆け出しの女優さんや、自分が美人だということを意識し始めた娘さんなどに、よくそういう演じそこないを見かけます。



それはみんなに見られているという意識です。周囲の眼に縛られて、その人は身動きできずにいる。さもなければ、自分を眺めている目に応じすぎて、相手の期待通りにお芝居をする。つまり、演じ足りないか、演じすぎるか、どちらかになりますが、いずれにしても演じそこないであります。ということは、周囲の眼に、すなわち、他人に操られていることです。



が、「自分を演じている」というのは、自分で自分を操ることでなければならない。それは、力学的にいえば、適切に力を用いるということです。対象が物体であれ、人間であれ、私たちは始終、さまざまな対象とぶつかり合っている。そのぶつかり合いが、すなわち「生きること」なのであります。



例えば、私たちは戸を開けたり閉めたりする。そのために力を用いる。それは戸を操ることであると同時に、自分を操る事にもなるのです。その場合、私たちは無意識のに、自分の力と戸の重さとの関係を計量しながら、適切に力を用いているのです。力を出しすぎてもいけないし、出したりなくてもいけない。従って、適切に力を用いるというのは、適切に力を抜いていることなのです。」


〇まだ、あと少し続くのですが、ここで一旦、休止します。
ここで、「自分を演じる」という言葉を聞いて、私が思い浮かべたのは、
いわゆる「お腹の中には何もない人」「竹を割ったようなさっぱりした人」という
誉め言葉で表される人のことです。

本当に、お腹の中に何もなければ、この日本社会の空気を読んで、生きていくことは
出来ないはずです。若かった頃は、そんな風に生まれついている人は、生きるのが楽だろうなぁ、と羨ましかったのですが、多分、そういう人は、いろいろありながらも、そういう自分を演じているんだろうと、思うようになりました。


そう、演じられるだけでも、たいしたものだと思います。