読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (九 「女らしさ」ということ)

「だが、それほど単純明快な話でも、ひとたび「女らしさ」とはなにか、「男らしさ」とはなにかと問い始めると、考えれば考えるほどわからなくなります。実は、私は、こういう問題を抽象的に論じたくないのです。


それにもかかわらず、この章を設け、「女らしさ」とか「男らしさ」とかいうものを根本的に考えてみようとしたのは、それがあまりに軽率に論じられている現代の風潮を疑問に思うからです。



「女らしさ」ということが問題になりはじめた、そもそもの端緒は、いわゆる女性解放ということでありましょう。いままで「女らしさ」と言われてきた事柄の内容は、結局、男の身勝手から、男に都合のいいようにこしらえあげられたものにすぎないのではないか。


そういう疑いが女性側から、あるいは女性に同情する男性から提出された。それが事の起こりだと思います。



まず、私はそういう考えに疑問を持ちます。なぜなら、たとえ過去の「女らしさ」が男に都合よく出来ているものにしても、それは同時に女にも都合よく出来ているものであったことを、ひとびとは忘れているらしい。



「女らしさ」を守ることによって、男も得をしていたが、女も同様に得をしていたのです。この場合現代人の眼で過去を見てはなりません。」



〇 この辺りが、釈然としません。確かに問題はありながらも、その中で幸せに暮らしていた人はたくさんいたと思います。だからと言って、問題を言い立てて争う態度は、良くない、と言っていては、社会を変えること等出来ないのでは?


「こう書いてくると、私は男女同権に反対しているようですが、もちろん、そうではありません。そう断るのもやぼな話で、今後も男女が法律的に平等になるよう、両者の側から努力が払われねばならないと思います。


ただ、過去がまちがっていた、昔は女が虐げられていたなどと思わぬことが肝要です。一度そう思い込むと、女性解放がとんだ方角ちがいに進んでいってしまいかねぬからです。



それなら、どう思ったらいいか。それぞれの時代にそれぞれの文化があり、それぞれの文化が女の「女らしさ」を造り上げ、男の「男らしさ」を造り上げていたと、そう考えるべきです。そして、両者とも、それで幸福になりえたのです。考えるべきだというより、じじつそうだったとしか私には思えません。


ところが、その過去の一時代の文化が崩れ去ったのに、私たちの意識は現実に追いつかず、過去の「女らしさ」「男らしさ」の概念だけが残っている。それが現代です。
間違いは封建時代という過去にあったのではなく、それが滅び去った現代文化の無様式そのもののうちにあるのです。



昔が悪いのではなく、今が悪いのです。あるいは、昔のものを今に適用しようとすること、そのことに間違いがあるのです。」



「そういえば、昔だって同じです。いや、昔の女のほうが、今の女より、よほど女らしくなかったのではないでしょうか。私がおぼえている範囲内でも、明治末期から大正初期にかけての女のほうが、今の女よりも、ずっと男勝りでした。」

〇 少しずつわかるような気がして来るのは、あの「青春」の時と同じで、「女」という言葉をイメージの中で型にはめてしまうな、と言っているのかな?
最初に「女とはこういうもの」と決めつけるな、と。女というイメージの前に、現実の生き物としての女を見ろ、と。



「すでにいったように、過去の「女らしさ」はけっして今日考えるようなものではなく生き方としての文化の様式なのであって、ひとたびそのお面をかぶると、結構女のあの「男らしさ」をも主張できるようなものだったのです。



女にかぎりません。怒るにせよ、叱るにせよ、たとえば敬語のような一定のスタイルに即せば、かなり強いことが言える。が、それがないと、たんなる怒号に終ります。昔の女は昔の「女らしさ」に寄り掛かって、強く出ることもできたのであり、強く出ても、「女らしさ」を破らずにすませたのです。


そういう文化の様式が失われた現在、今日の女は、自分一人の力で、あるいは女性解放論者の力で、いや、女だけの力で、「女らしさ」を造り上げることは出来ない以上、かえって弱くなっている。私はそう思います。



見かけはどうふるまおうと、昔の女よりも、悪い意味の「女らしさ」をむき出しにしていはしないでしょうか。もちろん、男にも同様のことがいえます。昔は女だけが損をしていたのではない。今は、それが回復されつつあるのでもない。



男も女も、同様に、現在、辛い目にあっているのです。私たちは、それに堪え、おたがいにいたわりあわなくてはならぬはずです。


私は、元来、「男のことは女にわからない」とか、「女の気持ちは男に通じない」とか、座談ならいざ知らず、本気でそういったことはありません。もちろん、そういうこともないとはいえません。しかし、それを強調するのは悪い趣味です。



生まれながら、どうしても理解し得ぬものなら、いってもはじまりますまい。そんなことをいうのは、実は男女間にどうしても通じないものにぶつかっていない証拠です。


「きみにはわからない」という表現で、じつは理解し合えるはずという前提のもとに、ふてくされた嫌味をいっているにすぎません。本来、男と女とは、いや、男女に限らず、人と人とは、お互いに理解し得ぬ孤独に堪えるべきものです。



理解することばかりが愛情ではない。理解しえぬ孤独に堪えるのも愛情です。愛情があれば、その孤独に堪えられましょうし、また相手の孤独を理解しうるでしょう。


過去の「女らしさ」を否定するついでに、現代の「女」を強調してはなりません。すでにいったように、「女らしさ」も「男らしさ」も観念的な抽象物にすぎないのです。


女はやさしいとはかぎらない。女にも強さがある。男は強いとばかりはいえない。男にも優しさがある。男のやさしさ、女のやさしさ、男の強さ、女の強さ、その他あらゆる性情は、男女それぞれにおいて、発現のしかたが違うだけです。



また、時代や民族によって差がありましょう。しかし、それらが、すなおに、こだわりなく表現できるためには、文化の様式が必要です。
それがない今日、私たちは、男も女も、おたがいに、その混乱に堪えなければなりません。「男ってものは」とか「女ってものは」とか、そういう言葉や生き方を、なるべく避けるようにしましょう。



そういうと、それを避けた方が、男に都合がいいのだろうと言いそうなひとがいます。労使協調をとなえたほうが資本家に好都合だというのと同じ論法ですが、男と女との関係は、資本家と労働者とのそれとはだいぶ異なります。(略)


確かに現代は混乱期であり、私たちは辛い生き方をしています。が、さらに悪いこととは、その辛さを自覚しないで、いたずらに八つ当たりばかりしていることではないでしょうか。


男に当たったり、女に当たったりする手はありません。同様に、時代に当たることも愚かしい。すでに、いろいろな問題について述べてきたように、いちばん大事なことは、最悪の事態を見通し、しかも、それにとらわれずに生きることです。


この章では、まだ真の意味における「女らしさ」にふらられませんでしたが、それは章を改めて書くことにしましょう。」


〇 わかるような、わからないような…という感じで読んでいます。
字面をそのままに受け取って、誤解してしまいそうな内容です。