読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十一 性について)

「性について語るのはむずかしい。元来、それは語るべき筋あいのものではないからです。いまも、私はそれについてうまくお話できる自信がありません。したがって、いろんな誤解を生むことでしょう。おそらく、そのことは避けられますまい。性の本質について、簡単に説明できるはずのものではないので、ここでは、性にたいする現代の扱い方について、いくつかの疑問を提出しておくにとどめましょう。」



「つまり、それは性道徳といっても、便宜主義の域を出なかったのです。便宜主義にすぎないからこそ、その便宜を必要としない農村では、男女の貞操観念はさほど支配的にはならなかった。


その便宜主義を無理強いに強行したのは、ヨーロッパ文化を輸入した明治政府であります。間接的にはクリスト教の影響もあったでしょう。が、日本人の生き方そのもののうちに、性にたいする自由な態度が生き残っているのですから、明治の指導者たちの強制が、大した成果をおさめるわけがありません。


江戸時代において、農村の大部分が武家道徳の外に打ち捨てておかれたように、明治になっても、いや、ごく近年まで、彼らは性的には相当に自由な生活を営んでいたのです。


戦後の現在も、そう大した変わりはありますまい。
そういう歴史的事実を考えたうえで、今日、若い人たちのあいだにうかがわれる「童貞」や「処女」への軽蔑を見直して見ると、それは近代的な新しい思想というより、むしろ封建時代の、あるいはそれ以前の古い日本人の血の反逆だと、私には思えるのです。


江戸時代の便宜主義、さらにそれよりも、ヨーロッパ文化の形式だけを採り入れた明治時代のハイカラな似非近代主義が、土臭い日本の風土のうえで、敗戦を機として、その付け焼刃の正体を現しはじめたのではないか。



私が申したいのは、性的に自由であり放縦であろうとするのは、強固な伝統に反逆する英雄行為ではけっしてなく、むしろ近代人の独立性を抛棄して、水が低きにつくように、生理的な、あまりに生理的な、昔ながらの日本人の生き方に身を任せることでしかないということです。


その良し悪しは別として、すくなくとも、そういう態度を、新しさとか、自由とか、近代性とか、勇気とか、自己主張とか、その種の合言葉と結びつけないようにしなければなりません。今日まで、背伸びしてきた日本人が、くたびれて敗北し、肩の重荷を投げ出した状態と見るべきです。(略)



「童貞」や「処女」は、なにも神聖視される必要はないかもしれませんが、そうかといって、嘲笑すべきものではないし、それを守ろうとするのを臆病だと割り切るのは、どうかと思います。」



「いつでもそうですが、子供がもっとも子供っぽさを発揮するのは、また女がもっとも女らしさを発揮するのは、自分は子供じゃないぞ、女じゃないぞと力みかえる時です。


以上の事を概括しますと、今日における「性の解放」というのは、第一に、過去の既成道徳への反抗であり、第二に、子供と女性とからの脱却であり、いずれも自我の主張と独立との形をとりながら、そして、本人はそう意識しながら、結果としては、自我の敗北に終わっているといえましょう。」



「精神の処女性などというものは、まことにあいまいなもので、そんなものが存在しないことは、誰でもすぐ気づくでしょう。男女関係でもっとも大事なものは肉体です。性は肉体を通じてのみ完全に発揮しうるのです。精神の処女性などというものは存在しない。


在るのは肉体の処女性だけです。男女とも、それを粗末に扱っていいわけはありません。いやなによりも大切にしなければならないのです。
もし、「童貞」や「処女」などという肉体の問題は第二義的なもので、大事なのは精神だという生き方を強調すると、その結果は、おそらくみなさんの予期に反したものになりましょう。



というのは、この種の精神主義は、逆に精神の価値をも低めてしまうということです。(略)
そこには「背徳的」なものなどありはしません。皆さんは、既成道徳を守る大人を脅かす反逆を、そこに読み取ったかも知れませんが、大人たちはそんなことでは驚かない。


なぜなら、大人たちは、昔も今も、そんなことは平気でやってきた。政略や金のために、女を売ったり買ったりしております。女の方でも、それを利用して、自分を売ったり、裏切ったりしております。ただ、彼らは、この小説の主人公や作者のように、少しも凄まないだけのことです。


その凄むところが、私の眼には、滑稽な精神主義に見えるのです。というより、自分が精神主義の犠牲者だという自覚が、主人公にも作者にも欠けていることが、あんなふうに凄ませるのです。この小説を支持する読者についても同様のことが言えます。」




「私がそれを精神主義だという意味はおわかりでしょう。もっとはっきりいえば、それは感傷的精神主義と名づくべきものです。口ではどういおうと、また意識のうえではどう処理しようと、私たちは精神と肉体とを簡単に割り切って行動することは出来ないのです。


肉体の交渉なしに精神だけの交流を考えるプラトニックな態度が精神主義であると同時に、それにこだわって反抗し、肉体の交渉を遊戯化し、性を快楽の具とみなすならば、どうしても、その背後に、遊戯を操り、快楽を味わう自分というものを残しておかずにいられなくなり、そこにふたたび精神主義が登場して来るでしょう。


そしてこの精神主義は、前のそれに比して、さらに手に負えぬ頑迷なものとなるでありましょう。
なぜなら、昔の精神主義は、性を通じることなしに、男と女の精神が互いに通い合うと夢想しておりました。が、第二の精神主義では、性の快楽を共有するだけで、お互いの精神は離れ離れになっております。


相手の肉体は、ただ自分の肉体に快楽を与えるための道具にすぎません。それなら、たんなる自慰行為です。肉体主義というのは、必ず自慰に堕するものなのです。その自慰行為のうしろで、めいめいの精神はしらじらしい孤独のうちに取り残されるのが常であります。

こういう傾向を助長した罪は、現代流行の性科学、あるいは性の心理学です。
次章に、その観点から、以上述べてきたことを、もう一度繰り返してみようと思います。」