読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十四 ふたたび恋愛について)

「恋愛が観念的であることは、いっこうさしつかえありません。いけないのは、それが観念であること自体ではなくて、元来それが観念的であることを忘れていることであります。


恋愛につきものはなにかと言えば、それは幻滅でありましょう。この相手こそ、あらゆる異性のうちから、もっとも自分にとって理想的なものとして選ばれたものだという燃え上がりのあとでは、必ず幻滅がやってくる。平たくいえば、倦きがくるのです。」



「うんだ子の経済的負担を考える必要がないほど経済的に恵まれていたとしても、また私生児を産むことが世間的に不自然と見なされない時代が来たとしても、子供という存在は、男よりは女にとって、ずっと深い血縁的つながりをもっているでしょう。



この「不利な条件」のため、女は恋愛や性欲をその場かぎりのものと思い込みにくい立場にあります。つまり、その場限りの恋愛は、男よりは女に、より多くの傷手を与えるのです。したがって、女は容易に騙され役から抜けきれぬでありましょう。



女は自分の子の父を求める。このことは、一妻多夫の社会、母系家族の時代においても、おそらく女の本能であったろうと思います。母系家族の時代が父系家族の時代に変わってきたのは、男が経済力の中心になったからだというのが定説ですが、そればかりでは割り切れますまい。やはり、自分の子の父を求め、それを自分と子供のもとに縛り付けておこうとする女の本能が、この歴史的変化の大きな原動力になっているのではないでしょうか。」



なるほど、恋を得る前にも、恋を失った後にも、「片思い」というものは、ありえましょうが、「片想い」というのは、それが可能性として、恋の獲得、あるいは恋の回復に道を通じていない限り、たんなる自慰行為にすぎますまい。


もし私たちが恋愛の幻滅にぶつかりたくないとおもうならば、この恋の獲得にも回復にも道を通じていない純粋なる「片想い」にしくはたてこもるにありません。
それは造花のように完璧であり永遠性をもっております。相手がいない以上、あるいは相手の正体にじかにぶつからぬ以上、私たちはいくらでも模範的な恋愛を続けることが出来ます。」




「恋愛の燃えあがりの時期においては、「あなたでなければ」といいながら、極端にいえば、実は女でありさえすればいいのです。といって、なにも女の肉体だけを求めているからではなく、恋を恋しているからであります。」




「のみならず、精神的恋愛においても、「心と心との融合」と思われるような事態が、ひとたび到達された後では、相手の性質や癖や趣味や教養が、自分のそれとぶつかり合い、「心と心との融合」を邪魔するものとして、眼に映じてまいります。皮肉なことに、「あなたでなければ」という時期にいたって、はじめて個性が問題にされておらず、「おまえが気に食わぬ」という時期にいたって、はじめて個性が問題にえるというわけです。



すでに言ったように、女は男よりこの自覚が遅い。では、どういう反応を呈するかであります。(略)そして、たいていはこういう言葉になって現れるでしょう_「あたしはまだあなたを愛しているのに、あなたはあたしを愛していない」が、はたしてそうか。もちろん、あらゆる恋愛の発展道程を一つ型のうちに要約することはできません。



しかし、多くの場合、相手が自分を愛しているのに、自分のほうはもう相手を愛していないのではないかという意識は、主として男のものであり、その逆に、自分は相手をまだ愛しているのに、相手は自分を愛していないという意識は、主として女性のものであります。前者は被告の意識であり、後者は原告の意識であります。」



「しかし、それだけなら、恋愛はもう終わってしまったのですから、私としては何も言うべき事はない。が、そのまえに、私が問題にしたいことは、恋愛の幻滅はつねに恋愛の終結を意味するかどうかということであります。



結論をさきにいえば、私はそうは思わないのです。「もう愛してはいない」と感じる男の意識と、「まだ愛しているのに」と感じる女の意識と、その両者はただ意識の面で相反しているだけで、無意識の底まで下りて行ったなら、たいした差はないのではないか。



私はそう申しました。すなわち、無意識の世界では、女ももう愛しては居ないかも知れないということです。のみならず、「まだ愛しているのに」と意識している女より、「もう愛してはいない」と意識している男のほうが、実際には愛していることさえありうるのです。(略)



一口にいえば、恋愛とはたえず一緒に居たいという結合の感情でありましょう。同時に、それは相手から離れ去りたいという分離の感情をも含んでいるのです。前者は目を閉じて、おたがいの差に気づくまいとしています。が、後者は目を開いてお互いの差に気づこうとしています。



普通恋愛という時、ひとびとは、この盲目の結合感情のみをさし、明察しようとする分離感情を無視しがちです。無視するどころか、それを恋愛と対立する敵意と混同したりします。が、それは間違いです。



恋愛にも、親子の愛情にも、分離と孤立との意識が、つねに見られます。それがなければ、真の愛情は成立しえないのです。また、それによってのみ、二人の愛情は強く鍛えあげられるのです。それは、いわば、刀を鍛える時の水の役割をします。この熱を冷却する水がなければ、鋼は強くなりません。」


〇よくわかりません…


「結合だけで分離のない恋愛は、たんなる「いちゃつき」にすぎず、一種の不潔感を伴います。それは澄んだ溶け合いではなく、たんなる混じり合いであって、醜く濁っております。二人の恋人は眠って夢を見ているだけで、そこには爽やかな目覚めはありません。その眠りも、泥酔や麻薬の昏睡にすぎず、けっして健康的なものではありません。」






「裏切られて自暴自棄になったり、はては自殺したり、相手を殺したりというような、新聞の三面記事を賑わす事件は、そういう分離のない結合だけの恋愛に眠りこけていたひとが、たまたま目覚めさせられた結果、我を忘れて起こすものなのです。(略)



かれらは恋愛においてあまりにむきになることを軽蔑します。二人の間がうまくいかなければ、さっさと別れたらいいのさといいます。それが賢明であり、知的であり、合理的であることだと思い込んでいる。が、次の点で、この知的な人種と、さきの無智な人種とは、同一種族に属します。


というのは、この知的な人たちにおいても恋愛は、分離を伴った結合ではなく、たんなる「いちゃつき」にすぎないからです。(略)



彼らもやはり恋愛の幻滅を、それから醒めたら、病人が退院するようにさっさと相手から別れたらいいと、割り切って考えているだけのことです。
かれらもやはり恋愛の幻滅を、そのまま決定的な恋愛の終結と考えるのですが、ただそれに腹をたてないだけの話です。


一見、賢明のようですが、じつはもう腹をたてる力さえのこっていないだけのことでしょう。無智な人は無意識の底の底のほうに、まだどこかで、健康な目覚めを期待する力が残っている。が、知的な人種には、もはやそれさえない。(略)



かれらは言います、「恋愛って、要するに性欲さ、倦きたら、ほかを漁ればいい」、またこうもいいます、「永遠の恋愛なんてあるものか、食欲とおなじにその場かぎりのものさ」、さらに大人ぶってこんなことをいう、「恋愛と結婚とは別物だよ、結婚はビジネスだし、恋愛というのはビジネスぬきの純粋な快楽だからね」。



もうたくさんだといいたくなる。これら頭を働かす人たちは、なるほど頭は働かしているが、その頭がもともと大して良質のものではないらしい。あまりよくない頭を働かしすぎると、まあ、こんな結果になるという好見本であります。



なるほど永遠の恋愛などというものはない。が、永遠という言葉の意味が問題なのです。分離のない結合が永遠につづくという意味では、恋愛は永遠ではありません。そういう「いちゃつき」を恋愛と思い込んでいるから、それが永遠でないといって腹をえたり、あるいは諦めてしまったりするのです。が、腹を立てるのは、永遠を求めている証拠です。(略)




かれらが永遠を諦めることによって得たものは、単なる無限の繰り返しにすぎません。恋愛から永遠を進んで追放したのは、じつは永遠を欲しているからであり、それが得られぬと頭を働かしただけのことでしかありません。手に入らないから、ほしくないと言っているだけのことです。」


「どこが悪いか。すでにいったように、恋愛を結合の面でだけ考えて、分離の面で考えないからです。そして、分離がやってくると、それでもう万事はおしまいと考えてしまうからです。


結合のあとの分離こそ、その次の段階の結合を深めるものだと、なぜ考えないのか。そう考えるべきです。最初の幻滅は、実は恋愛が初めて出発点に立ったという合図みたいなものです。何も終わりはしない。始まったばかりではありませんか。


「やっぱり人間って孤独なのね」とか「あたしはひとりぼっち」とか、そんな呟きはようするに甘ったれにすぎません。
たしかに恋愛においても、人は一人ぽっちです。が、一人ぽっちだという実感を持った人だけが、はじめて恋愛入門の資格を得るのです。それ以前は「いちゃつき」にすぎません。



自分がひとりぽっちなら、そのときは相手も一人ぽっちだということを知るべきです。そのように自他の孤独がまざまざと見えてくる状態が、恋愛における分離作用の役割です。(略)



が、その分離がただちに恋愛の終結と考えられず、次の段階における結合の準備期間であるためには、そして恋人同士が、それをそう見なしうるためには、人間心理に対する明察が必要であると同時に、その前提としては真の恋愛感情と恋愛能力とがなければなりますまい。(略)



その交互作用と相互信頼とは、恋愛においてなによりも不可欠な条件であります。それが不可能な相手と恋愛すべきではありません。が、現実では、それがしばしば行われるから、だましたの、だまされたのと愚痴が出るのです。また、恋愛は性欲さと割り切ってすませるのです。(略)



ところが、性を割り切って考えている現代の小ドン・ファンたちが性欲という場合、むしろ異性が物質的存在に、あるいは単なる生理的存在になることを欲していはしないでしょうか。それなら自慰行為です。くりかえしだけで、永続がないゆえんです。
結婚など不便このうえもない制度だということになります。



そこらのあわてものが、独身主義だの、友愛結婚だの、第二結婚だの、愚かな事を口ばしるのも、そのためでしょう。」