読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十五 結婚について)

「どんな精神的な問題にも、契約や取引の面がともないます。結婚もその例外ではありません。大雑把にわけると、世間にも二種類の人間がいて、その第一類に属する人たちは、結婚は純粋に心の問題だと思い込んでいます。彼らにとっては恋愛と結婚との区別がないのです。

挙式という世間的な表示をするかしないか、せいぜいそれだけの差で、当事者にとっては、そこには何の違いもないと考えています。
こういう精神主義者と対立して、はなはだ現実主義的な考え方をする第二類の人たちがおります。かれらは結婚は取引さと、しごく割り切ったようなことをいいます。

すなわち、結婚は男女が手軽に性欲を満たす方式であり、また男は外に出て働き、女はその留守、家事をとりしきり、子供の世話を焼きというわけで、もっと露骨にいえば、男は雇い主、女は使用人ということになり、そのためにも結婚は分業を容易にし完全に成立させるための便宜にすぎぬものとなります。


しかし、もし結婚がそれだけのものなら、大した意義はないでありましょう。あるいは一時的な意味しかもたないでしょう。(略)


何を好んで、いがみあいながら二人で暮らす必要がありましょう。男女が別々に暮しながら、たまの出会いを楽しむに越したことはない。(略)

大げさにいうと、人類はこの辺でそろそろ一夫一婦制に疑惑の目を向けてもいいのではないか。もちろん、私は一夫一婦制を信じております。正直に言えば、ごく最近、それを信じる気になったのであります。が、とにかく、みなさんは一度とことんまで、一夫一婦制というものに疑いを持った方がいいと思います。

その疑いの持ち方について手順をお教えしましょう。
その第一段階については、すでに申し上げました。つまり、自分が一夫一婦制を男女の自然ンあ結びつきの形式と考えているとしても、それは単に世間の常識に支配されているのではないかと考えてみること、さらに女性の場合は、経済的に独立しえないため、男の経済力に寄生して生きる必要から、一夫一婦制の「不合理」に眼をつぶっているのではないかと考えて見ること。」

「どの異性にも性欲を感じる以上、性の解放は自然の本能でありましょうが、同時に、貞潔を欲し、一夫一婦でありたいという要求も、また自然の本能ではないでしょうか。
本能は一つしかないわけではない。また、人間は二つの矛盾する本能を持たないわけでもない。性の解放も、貞潔も、私は二つながら性の自然な在り方だと思います。(略)

最初に第一類の考え方と第二類の考え方とを大別しましたが、大別にもせよ、こういうふうに二種類の考え方に分けられるということに間違いがないでしょうか。ここにも知識階級の悪癖である完全主義的思考法の弱点が出ております。

人々は結婚にせよ、なんにせよ、あらゆる問題を「完全にして純粋なる」形式にえ煮詰めて考えずにはいられないらしい。つまり、結婚というものを、「完全に」精神的な問題であるか、「完全に」事務的な問題であるか、そのどちらかの極に追い込まずには済まされないのです。

が、その根本には精神主義、理想主義が巣くっております。「結婚は事務さ」と割り切っている第二類の人たちは、一見はなはだ事務的、現実的に見えますが、じつは第一類の人たちよりはるかに精神主義者、理想主義者なのです。なぜなら、男女の結びつきの「完全にして純粋なる」精神的結合というものを考えればこそ、その理想を欠いている結婚を事務的、現実的と断定せざるをえなくなるのです。

欠いているとまではいわずとも、事務的、現実的な煩雑さのかげに精神的、理想的なものが、まことにあいまいな存在と成り下がってしまった事実に腹を立てているのです。」

〇 ここで思い出したのは、「正義を考える 生きづらさと向き合う社会学」のなかにも、同じような指摘があったということです。


「それに対して、周辺的労働者がコミットする原理主義エスナショナリズムのほうはもう少し複雑です。(略)彼らは、普遍性をことさらに拒否する。普遍性を標榜しているどのような価値や概念も、欺瞞であるとして、拒否する。その意識的な拒否をあからさまに示すために、あえて、何かに原理主義的に、あるいはナショナリスティックにコミットしてみせるわけです。

しかし、普遍性を僭称するどのような価値や概念も贋物に見えるのは、実は、まさに本当の普遍性を要求しているからでしょう。とすれば、原理主義エスナショナリズムポピュリズムなどは、ことさらに普遍性を拒否して見せる、そのアイロニカルな態度において、逆に普遍性を指向していると考えられる。」

〇 「普遍性を要求しているからこそ、欺瞞を許せず、拒否している」態度と「理想を欠いている結婚が許せず、所詮事務だ」とする態度が似ています。
そして、敢えて言わせてもらえば、どちらもとても子供っぽいと感じます。現実を見て、その現実に向き合い、理想を求める勇気を持とうとせず、拗ねて、捻くれてる、思春期の子供のようです。

(…と思ったのですが、結婚は相手があることなので、1人で理想を持っても、「共闘」してくれる人がいなければ、ダメですね…)

「同様にして、性の合理主義的解決を考える人たちは、精神と肉体とを完全に分離しようとする。精神は精神、肉体は肉体であります。肉体の「完全にして純粋なる」快楽のためには、精神抜きでいこうとする。その人たちには、精神がないわけではない。むしろありすぎるので、精神が邪魔になるのです。これは理屈ではありません。

なぜなら、そう考えるのは知識階級に多いので、一般的に無知といわれる大衆は、そんな面倒くさいことは考えません。すなわち、肉体主義も頭で考えた事であり、すべてを合理主義的にしようという精神主義の所産なのです。(略)

ただ、かれらはこんなふうに絶望している。「完全にして純粋なる」精神的な喜びなどというものは、相手のあるところでは得られぬのではないか、と。二つの魂の合一などはありえない。精神が「完全にして純粋なる」状態を保つためには、相手は肉体だけで居てもらいたい。なまなか精神があると、合一における完全度と純粋性を邪魔するだけだ。おそらくそう考えているのに相違ありません。」

「そこまで考えたら、今度はこう考えられないものでしょうか。夫婦にせよ、友人同士にせよ、完全なる和というものはありえない。というより、もしそこに和がもちきたらされたにしても、その裏には、つねに破局の危機が蔵されているのです。

そのことを私たちは悲観的に受け取る必要はない。それで絶望してしまうのが完全主義者というものであります。が、和のかげにはつねに不和のきっかけが忍んでいるということは、言いかえれば、和は不和によって保証されているということであります。

もし不和がないとすれば、それは二つの精神の合一ではない。二つである以上必ず不和と対立がつきものです。それが合一すればこそ、和の喜びがあるはずです。
以上のことは、恋愛の幻滅について述べた時にも、すでに触れておきました。私たちの間の、どんな仲のいい夫婦でも、明日は別れるかも知れないという危機を蔵しているのです。」

「無意識なものをわざわざ呼び覚ます必要はありませんが、もしいささかでもそれが意識の表面に浮かび上がって来たなら、私たちはごまかしてはなりません。はっきり事態に直面すべきです。二人の男女が一緒に暮らすということが、どんなに難しいことか、二つの精神が、二つの肉体が、真の和に達することが、どんなに難しいことか、それを自覚すべきです。

そしてさらに、この難しい仕事をやってのけようという契約が、とりもなおさず結婚ということなのだと、そう覚悟して頂きたい。それだけの覚悟なしに、ただ薔薇色の絵をいだいて恋愛から結婚へと進むことは、実印を詐欺師の手に委ねるより、もっと危険な話であります。

いや、このたとえはあまりうまくない。というのは、結婚には、多少ともそういう危険を冒すという要素があるからであります。(略)

いずれにせよ、裏切られてもいいという覚悟が必要でしょう。というのは、諦めでも自棄でもない。まず第一に、裏切られてもいいから、この人が欲しいということでしょうし、第二に、今後、お互いに裏切ったり裏切られたりしないように努力しようということでしょう。

結婚に薔薇色の夢をいだく人たちの陥りやすい過ちは、その努力の抛棄です。はじめに愛ありき、それですべては無為にしてなるという考え方です。(略)

オスカー・ワイルドは自分の芝居のなかで、恋愛中の二人の若い男女が、得々として自分たちは理解し合っているから結婚するのだ」といったのに対し、「理解は結婚にとって最大の障碍だ」と皮肉を言っております。が、私たちは、これをたんなる皮肉片づけてしまえぬのではなないでしょうか。「理解」という花の裏には、言葉のしゃれではなく、つねに「利害」という蛇が隠れているからです。」

〇「理解」を求める裏に「利害」が隠れているという指摘は
鋭いと思いました。



「が、本当のことを言えば、結婚して十年経とうが、二十年たとうが、1人の人間が他の人間を、しかも性を異にする人間を理解するなど、出来ようはずはないのです。まして、結婚前に相手を理解してしまうなどということはありえない。理解しあった上で結婚しろということになれば、私たちはよほど自分をだましでもしなければ、永遠に結婚できないでしょう。(略)

その上、なにより危険なことは、お互いに理解しあったと思い込んだ瞬間、それからは相手を自分の理解力の中に閉じ込めてしまい、相手がその外に出ることを裏切りとして許さないということです。

というわけで、「理解」はけっして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、今後何十年、お互いにお互いの理解しなかったものを発見し合っていきましょうということではありますまいか。

すでに理解し合っているから結婚するのではなく、これから理解し合おうとして結婚するのです。である以上、たとえ、人間は死ぬまで理解し合えぬものだとしても、お互いに理解し合おうと努力するに足る相手だという直感が基礎になければなりません。

同時に、結婚後も、めったに幻滅に打ち負かされぬ粘り強さも必要です。


※ 実は、昨日、この後も少し続けて、この「結婚について」は終了したつもりで
いたのですが、何故か、投稿がうまく行かず、途中で書いたものが消えてしまう、というトラブルが続きました。

そんなわけで、ここまでを一旦投稿し、続きは新しくメモしたいと思います。
書いたものが消える!というのは、一番困ります!