読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十五 結婚について) つづき

「それでも、ついに敗れるときもありましょう。その時は別れるよりほかに仕方はありますまい。(略)
ただ恐ろしいことは、「理解」という美徳の信仰は、自分をも相手をも、自分が理解した小さな枠のなかに閉じ込めてしまうことです。(略)



お互いに相手の正体は自分には見通しだとたかをくくっているし、自分は相手に尻尾を掴まれているという劣等感でちぢこまっています。そうなると、結婚とは、お互い相手の足を引っ張って、棺桶に押し込む作業をやっているようなものです。


相手がなんと抗弁しようとも、こちらはもう自分のふんだ値にしか、相手を買おうとしない。



この場合、さらに恐ろしいことは、相手に対してそれほど苛酷であるにもかかわらず、たいてい自分には寛大であるということです。すなわち、自分が相手を理解していないのに、相手だけが自分を理解していないと思い込む。「理解」の美徳の落ち行くさきは、まずそうした利己主義でしかありません。



が、自分が相手と共にいて孤独だと思う時は、相手も孤独なのだと、なぜそう考える余裕を持たないか。それこそ、真の意味の「理解」ということでありましょう。が、こういう「理解」を身につけるのは、単なる知的な理解力ではどうにもならず、それはむしろ想像力と呼ぶべきでありましょう。想像力はまた創造力でもあります。



が、相手の孤独を想像しうるというのは、とりもなおさず、愛があればこそということになり、そうなるとあらゆる結婚論が説得しようとしていることは、全て無駄な事だと言えそうです。いや、事実無駄であります。(略)




第一、裏切られっこない結婚などを考えるのは、たいへん厚かましい。たとえそれが精神的な期待であるにしても、結局は財産目当ての結婚と同じことです。



人生が賭けである以上、結婚も賭けであり、その責任は全部、自分が背負うべきであります。その覚悟さえあれば、少なくとも無い人よりは、結婚を実り多きものにすることができましょう。控えめにいっても、被害を最小に留められるでありましょう。」



〇人生が賭け、と思ったのは、宗教を受け入れようと考えた時です。
それと同じ感覚で、結婚も賭けだと思いました。

賭けて失うものは、何もない、と思ったのです。私には、生きる意味が解らなかった。生きてるのが苦しいだけだった。

万が一、宗教を受け入れることに賭けて、生き甲斐が見つかるのなら、これ以上ない幸運なことです。賭けに負けて空しい人生になったとしても、それは、現状のまま。
何も失わない。

ただ、騙されるのだけは嫌だった。
私の選んだ宗教は、愛を信じよと言いました。
結婚も、愛を信じよ、です。

私は本来、愛することが苦手な人間です。
ほとんど、「演技」のようにしてでも、愛することが出来るようになりたいと
願い、祈り、絶望し、それでも、諦めきれずここまで来ました。

愛している演技を偽善というのなら、私の生き方は、偽善者に成り切りって死にたいと努力した人生です。

今、老年になり、賭けて良かったと思っています。