読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十六 家庭の意義)

「すでに「職業について」「母性」「恋愛について」などの各章において、家庭について多少の暗示をしておきました。いまは家庭の意義について深く顧みなければならぬ時だと思います。私たちの文化において、私たちの生き方において、家庭の演じる役割が改めて考えられなければならないときだと思います。



なぜなら、右の三章において私が暗示しましたように、人々は意識、無意識のうちに家庭の破壊をもたらすようなことをしているからです。進歩だの自由だの幸福だのというあらゆる近代的な旗印のもとに、人々は家庭の崩壊を企てています。少なくとも家庭からの逃避をもくろんでいる。



もちろん、その方がいいと決まれば、すなわち家庭など百害あって一利なしと決まれば、それもいいでしょう。が、私の見るところでは、人々は家庭を崩壊し、そこから逃避しようとしながら、その結果においては、家庭の欠如に苦しんでいる。それでは困る。だからこそ、家庭というものの意義を深く考えていただきたいと申すのです。



ます最初に断っておきたいことは、家庭の重視と家族制度や家族主義の復活とは、根本的に異なるということであります。」





「家族制度についても同様で、その弊害は、家族制度の「封建性」にもとづくものではなく、その「封建性」が崩れて似非封建性と化したところに生じたものといえましょう。(略)


いまのところは、家族制度の是非は棚上げにして、家族制度と家庭の重視ということとは別物だということだけを、まず呑み込んでおいて頂きたい。」


「子供が父母兄弟から解放されたいばかりではありません。結婚当時はともかく、数年たてば、夫は妻から、妻は夫から解放されたいと願うようになる。(略)


それどころか、現在の若い人たちが好む夫婦共稼ぎは、経済的吏遊湯からばかりでなく、鎖された家庭からの逃避という意味から支持されている面もあります。が、考えてみると、そうまでして、なぜ家庭を営む必要があるのかと問い返したくなります。



できるだけ束縛から解放されているためには、独身位都合のいい形式はないはずだ。」



「考えてみれば、当然のことです。家庭の束縛から逃れようとしたのは、それに堪えきれなかったからであり、それに堪えられなかった人が職場や社会の束縛だけには堪えられるというわけがありません。



こうして人々は家庭から逃れて外に出て行き、今度は社会から逃れて家庭に帰って行く。家庭からの逃避は、また家庭への逃避を必然ならしめるのでありましょう。(略)


すなわち、家庭は弱者の隠れ家だというわけです。が、彼らは忘れている、家庭を隠れ家いて要求する弱者は、もとを正せば、社会を家庭からの避難所と考えた弱者であることを。したがって、家庭を弱者の隠れ家と断じて、それを棄てることを進めることは、むしろその弱さの温存をはかることにしかなりません。」



〇 う~~~ん…ここを読みながら思い出していたのは、不登校ぎみになっていた次男のことです。児童相談所の人(どういうキャリアの人かは知らないのですが、話の内容から、私はその人のことを、かなり信頼していました)によると、

まず、家庭の中で元気に過ごせるようになること、を目指すように言われました。


「もともと私たちには、家庭にたいして、あるいは家庭を守るということに対して、奇妙な劣等感があります。家庭を顧みずに仕事に精を出すということが、一種の美風と考えられております。



一人前の男ほど、「家庭なんてものは」とか「女房なんてものは」とか、とかく他人のまえで威張りたがる。日本の男性をそういうふうに仕立て上げた理由を分析すると面白いでしょうが、今はその暇がないので、簡単にその心理の現状についてだけ述べておきましょう。





それは、一口にいえば、「こいつは女房の尻にしかれている男ではないか」と、そう他人に疑われることを恐れて、偽悪的に「おれは女房のことなどなんとも思ってはいないぞ」と威張って見せたがるのであります。」




「しかも、日本の大抵の男性がこの偽悪、ないしは偽善にとらわれているとすれば、そこにはなにか普遍的な理由がなければならない。(略)



よく家長が威張るのは封建的だなどと申しますが、封建時代の家長は威張らなかったのです。真に権威のあるものに示威運動の必要はない。明治になって、その権威が失われたからこそ、見せかけだけでも、それを維持しようとして、家長は威張って見せざるをえなかったといえましょう。」




「そうなると、家庭というものは、自分の利己心にとってのみ必要な存在というだけで、他にそれを維持する大儀名分がどこにも見当たらない。そこで家庭の幸福は公の場面では、あまり主張できぬものになってしまったのです。妾と同様、正妻も、そして家庭もついに日陰ものになってしまったと言えましょう。」



「これは戦争中の経験でありますが、国民が敗戦の実相に勘付き、国家の庇護にあまり期待しなくなった時、人々はようやく家庭への顧慮ということをむき出しにし始めたのであります。


買い出しや引っ越しは勤めさきを休むための公然の口実となっておりました。人々ははじめて、家庭の秩序を守る事を、国家的な、あるいは社会的な事業と対等に考えるようになったのです。(略)



戦後二三年たつと、国家の代わりに今度は「社会」とか「階級」とかいうものが、人々の大義名分になりました。その看板のかげに、家庭はふたたびうしろめたい存在と化してしまったようです。



進歩主義者たちはマイ・ホーム主義を軽蔑し、家族制度の否定をもくろみながら、ついでに、この家庭の破壊をもねらっている。家庭は「社会の進歩」の敵であり、忌むべきエゴイズムの母胎であると教えます。なるほど、妻子のある男は、徴兵制度を嫌ったように、社会改良のための組織的活動には深入りしたがらないでありましょう。



ところで、家庭は、そのようにうしろめたい日かげものの存在であるのか。また、そんな状態でいいのか。私はそうは考えない。家庭は便宜的な、あるいは消極的なものではなく、それ自体が目的たりうる積極的なものでなければならないし、またそうありうると信じております。



なるほど家庭にはエゴイスティックな面が多くあります。が、それを承知のうえで、誤解を恐れずにいえば、家庭は集団から切り離され、社会とは無縁のものであっても、いや、ときに反社会的であってさえも、それを維持すること自体が、生の目的にいうるものなのであります。


家庭は社会的な活動からの単なる休息所ではありません。家庭は社会的な仕事をするための便宜的な手段ではありません。もちろん、それはもっとも安易な性欲のはけ口でもありません。


私は理想的な家庭生活の実践者ではないが、家庭の観念については理想家であります。」


〇ここが、すごく好きです。「理想的な実践者ではないが、理想家です。」
涙が出るくらい好きです。(^-^;


「それなら、家庭がそれ自体で目的たりうるということは、いったいどういうことを意味するか。いうまでもなく、人間は社会的動物です。その社会生活や集団生活の最小単位が家庭であります。



そして、この最小ということは、もっとも純粋ということなのです。家庭は社会の最小なる、そしてもっとも純粋なる形態なのであります。いや、それは社会生活の基本形態であるばかりではない。


さらに人間の生の基本形態であります。私たちは家庭においてはじめて、完全な生の在り方を実現できるのです。社会において、あるいは職場において、単なる部分的な断片でしかない私たちも、家庭においては一個の完結せる人格たりうる。



ロレンス流にいえば、どんな身分の低い男でも、家庭にあっては一箇の王でありうるし、その妻は妃でありうるのです。したがって、家庭は一小王国であり、一小宇宙であるというわけです。


「イギリス人の家は城郭である」という言葉がありますが、たとえ、ようやく雨露をしのぐだけのみじめな家に住んでいようとも、私たちは、そこでだけは一国一城の主になれるのです。




今日、私たちは人と人をつなぐ強い紐というものを持っていない。私たちはばらばらの断片にすぎず、それらをひとまとめにする全体の意識に欠けております。いつ、私たちは失脚するかもしれない。いつ、裏切られるかもしれない。表向きはどうあろうと、誰も無意識の底では、他人を警戒しています。もちろん、家庭においても、そういう傾向がないとはいえません。が、もし家庭において、真の信頼感が保てぬとすれば、外においてそれを手に入れることは、さらに難しいでありましょう。(略)



というより、私たちの中に信頼感回復の夢が宿るのは、最小単位である一人の男と一人の女との結びつきにおいて、僅かにそれがあるからこそであり、それから推して社会全体にもそれを期待するのはないでしょうか。



人が人を信頼できるというのは、1人の男が一人の女を、あるいは一人の女が一人の男を、そして親が子を、子が親を信頼できるからではないでしょうか。



それをおいてさきに、国家だの社会だの階級だの人類だのという抽象的なものを信頼いるはずはありません。それゆえにこそ、家庭が人間の生き方の、最小にしてもっとも純粋なる形態だといえるのです。



信頼と愛とが、そこから発生し、その中で完成しうる、最小にしてもっとも純粋なる単位だといえるのであります。その信頼感や愛情を、家庭的エゴイズムと呼べる人は、大した救世主であります。どうしてそれがエゴイズムでしょうか。もしそれが家庭的エゴイズムなら、すべての社会的活動も、社会的エゴイズムとか階級的エゴイズムとかいうふうに、簡単に割り切れてしまいましょう。



なるほど自分の家庭の幸福のために他を顧みない単なるマイ・ホーム主義は困ります。が、その場合ですら、彼らは完全に生きているのであります。浅はかな慈善家よりは、愛と信頼とに生きているのです。



無智で盲目的な母親の愛でさえ、家庭の束縛から逃れて職場から得られる解放感より、俸給やそれによって得られる小さな自由より、はるかに生きるに値するものだと言えましょう。なぜなら、その母親には、身を棄てて尽すものがある。が、職場の息子や娘にはそれがないのです。



さて、家庭における信頼感と愛情とは、私たちに献身を教えるが、それと同時に、w個人の独立を教えもします。個人の独立のために家庭から逃避するというのは間違いで、それは家庭が家庭としての機能を十分に発揮していないことから生じる現象にすぎません。



ロレンスのいうとおり、家庭が一小王国でありうるならば、それは当然の結果として、外部のいかなる勢力の介入をも排除しようとするでしょう。家庭はその成員に、自己を他と区別し、他と対立する自覚と能力とを要求するのです。一つの家庭はそれ自体として完結し、異質物の介入を許さないからです。」


〇 ここは、よくわかりません。具体的にどういう状況を考えればよいのか。



「家庭には家庭の秘密がある。なるほど開放的で明るい家庭というもののありましょう。が、そういう家庭にも秘密がある。すべてが外から見えてしまったのでは、家庭は崩壊します。



よく西洋の家庭は日本の家庭にくらべて開放的だという。が、それは間違いです。日本の家庭の方が、秘密がない。隠し事はあっても秘密はないのです。戦争中をごらんなさい。隣組がめいめいの家庭の中を勝手にのぞくことができた。



新興宗教にこっている家をごらんなさい。教師が家庭に入り込んで来て、いろいろ裁きをつけます。(略)



秘密というのは隠し事でなく、自律的に動くということなのです。ロレンスはこういっています。クリスト教はこの世に一夫一婦制をつくり出し、家庭の権威を確立した、と。つまり、家庭は一小王国として、それらを包含するカイザルの王国と、すなわち現実の国家と、対立することができたのであります。



家庭は隣組や友人の溶喙だけではなく、国権の侵入にたいしても、城門を鎖すことができたのです。いや、私たちは、家庭というものに、それだけの力と権威とを与えなければいけないのであります。



最後に、もう一つ付け加えておかねばなりません。いま、私は家庭がそれ自身を守る機能について述べました。しかし、家庭には、それと同時に、それ自身を超える機能があるのです。(略)



すなわち、結合と同時に分離ということが必要なのです。つまり家庭の和合が「いちゃつき」になってはならぬという意味です。夫を批判し得ない妻、親を批判しえない子、そういう家庭は、はた目にも醜い。



自分の夫にだけしか、あるいは自分の妻にだけしか、気のなさそうな顔をしている夫婦は、正直の話、つきあいにくい。なにも浮気を奨励するわけではありませんが、もし、家庭的エゴイズムというものがあるとすれば、そういう状態の家庭についていえることでありましょう。


マイ・ホーム主義が非難されなければならないのはその点であります。すべての王国がそうであったように、小王国の家庭も、つねに破壊される危険をもっているのです。その危険がなければないで、それは熟柿が落ちるように、うじゃじゃけて自己崩壊する危険を蔵しているのです。



以上で、私が家庭というものをどう考えているか、大体わかっていただけたと思います。それは社会の力の及ばぬところであると同時に、また、私たちはここにおいて、最小限度の、そしてもっとも基本的な、社会的訓練を受ける場所なのでもあります。そこでは古い生き方と新しい生き方とが出合い、社会と個人とが出合うのです。



自己主張と自己抛棄とが出合うのです。
私たちが家庭をおろそかに考えられぬゆえんはそこにあります。」


〇 これまで、よくも悪くも、日本的な考え方で、地に足がついている、と思いながら読んで来ました。
でも、この「家庭の意義」では、「イギリス人の家庭は城郭である」が理想として持ちだされ、

「クリスト教はこの世に一夫一婦制をつくり出し、家庭の権威を確立した、と。つまり、家庭は一小王国として、それらを包含するカイザルの王国と、すなわち現実の国家と、対立することができたのであります。 
家庭は隣組や友人の溶喙だけではなく、国権の侵入にたいしても、城門を鎖すことができたのです。いや、私たちは、家庭というものに、それだけの力と権威とを与えなければいけないのであります。」

とまで言っているのが、少し唐突に感じ、意外でした。