読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十七 快楽と幸福)

ギリシアの末期にエピキュリアニズムという哲学がありました。これはふつう快楽主義、刹那主義と訳されております。(略)


ここで、快楽とはなにかということが問題になります。私たちの間では、それはあまりいい意味には用いられておりません。少なくとも快楽主義といえば、反道徳的なものと見なされ、悪や罪と結びつけて考えられております。(略)


が、エピキュロスの快楽主義はそんな単純なものではありません。まず最初に、その区別をはっきりつけておきましょう。
なるほど、エピキュリアニズムは一種の唯物論で、この現実世界の外に「あの世」の存在を認めない。人間の肉体や物質を超える超自然の神を設定しない。喜びも楽しみも、すべてはこのうつしみの肉体と五感で感知しうる物質とに起因するもので、それをよそにした精神の幸福というものを考えない。


それらの点では、エピキュリアニズムは私たちが現在ふつうに用いている快楽主義となんの変わりもないかもしれません。(略)



ふつう世間でいう快楽主義は、眼前に現れる快楽の誘惑に、つぎつぎに身をまかせます。その場その場の肉体的な欲望に自分を委ねます。かれらは快楽を操っているのではなく、快楽に操られているのです。



自分が快楽を手に入れるのではなく、快楽に自分を売り渡すのです。平俗にいえば、酒を飲むのではなく、酒に飲まれているのであり、金を自由にするのではなく、金に自由にされているのだということになります。それでは、真の快楽はありえない。



エピキュリアニズムはその点を強調します。快楽に身を持ち崩したのでは、その結果は、必ず苦痛をともなう。(略)



不安や悲哀に脅かされている快楽は真の快楽ではない。そこでエピキュリアニズムは快楽を手に入れるために、それを確実なものにするために、快楽を操り、それを制御しようとする。肉体的、物質的な欲望を大事にし、それを充足することこそこの世の生きがいとすれば、そしてその考えを徹底し、その方法をよく考えて行くと、どうしても、この肉体的、物質的な欲望を意のままに操って行かなければならないということになって来るのです。



ほかならぬ欲望のために欲望を、快楽の為に快楽を、時には抑え付けなければならなくなるのです。
なぜなら、人間の欲望と大自然の欲望とは、必ずしも一致しない。人間の欲望と他の動植物の欲望とは一致しない。また人間相互間において、自分の欲望と他人の欲望とは一致しない。それどころか、自分自身のなかにおいても、さまざまな欲望は、自分と他人との間における以上に、対立し衝突しあっているのです。



味覚のいうことだけ聞いていれば、消化器官に被害を与えるでしょう。また疲労を避けて歩かぬようにしていれば、脚力は衰えるでしょう。
そればかりではありません。すでに、性や結婚について述べた時に申しましたが、一口に自分の欲望といったといころで、それがどこにあるかを見極めることは、容易なわざではない。



私たちは一夫一婦制は「不合理」だと考えます。なぜなら、夫や妻でないほかの男や名が欲しくなるからです。が、私たちのうちには、性の自由を求める欲望があると同時に、また貞潔を求める欲望がある。前者は意識化された欲望であり、後者は陰に隠れた無意識の欲望であります。」




「私たちは、自分の欲望を真に知ってはおりません。ただ禁じられているがゆえに、その枠を破ることにのみ、自分の欲望があると錯覚している。」



「エピキュリアニズムは唯物論でありながら、すなわち、肉体と物質との両面における快楽をめざしながら、しかも、その快楽にわずらわされぬ「不動の心」「平静の心」というものを最高の美徳と見なすのです。これは、理屈の上では、筋がとおらない。


第一に、世界は物質以外のなにものでもないという立場に立ちながら、その物質に動かされない、のみならず、逆に物質を裁く精神というものを持ちだしてきます。それは一種の精神主義です。第二に、快楽を目指しながら、それに煩わされては真の快楽が得られぬというところから、どうしても禁欲主義的態度を必要としてきます。




が、そういう矛盾はとにかく、エピキュリアニズムが、一般に考えられているような刹那主義や快楽主義と、根本的に違うということは、以上でお分かりいただけたと思います。(略)



平たくいってしまうと、いずれも快楽を目標とするので、違いはただ方法にあるだけではないか。エピキュリアニズムは、快楽を手に入れるために、見通しをきかし、よく計算する一方、世間でいう快楽主義は、行き当たりばったりである。前者は「賢い」快楽主義、後者は「愚かな」快楽主義、それだけの違いではないか。そういいきって、いいように思われます。」




「ここまで考えて、誰もがすぐ思いつくことは、技術や組織にすがろうということであります。全てを見通し、よく計算することが、個人の力にあまるとしても、自然科学や社会科学の助けを求めれば、それがなんとか可能になりはしないかということであります。



大雑把にいえば、それは正しい。(略)
が、その科学的方法もまた、なにものかに笑われることがないだろうか。私の疑問はそこの集中します。つまり、そこにも、快楽というものの限界が考えられはしないかということです。



端的にいえば、私が単純な快楽主義とエピキュリアニズムの「根本的な」相違点を指摘したあとで、やはりその両者が一つ穴の貉だと断定せざるをえなかったように、社会主義共産主義も、そして福祉国家の思想も右の二つと「根本的に」違いながら、結局は同一地盤に立つものと断じうるのではないか。



つまり、そのいずれも、広い意味における快楽主義のなかに包括されるものとしか、私には思われないのです。そのいずれにおいても、目指されているのは快楽ということであり、問われているのは、それを手に入れる方法にすぎません。



ここで、ふたたびこの章の冒頭にかかげた「快楽とはないか」という問いに立ち戻ります。結論をいってしまえば、それが単なる個人的なものであろうと、また社会的なおい視野を持っていようと、所詮、快楽とは、おのれ一人にかかわる孤独な迷妄にほかなりません。



私がこれまで長々と語ってきたのは、現代人の考え方を通じて、さまざまな仮面をかぶって入り替わり立ち代わり現れる快楽主義を指摘するためであり、そしてそれを否定するためだったのです。


この最後の章に、もう一度、その問題のしめくくりをつけておきましょう。



あえて「快楽」とまではいわなくても、私たちは自分の人生を、また共同生活としての社会を、「快適」なものにしようという情熱にとりつかれております。もちろん、そのこと自体は少しも悪いことではありません。


が、その度が過ぎはしないでしょうか。というより、私たちはうっかりすると、そのことだけしかかんがえないという状態に落ち込んでいはしないでしょうか。人生を、そして社会を快適なものにするということが、現代では最高の「美徳」になっていはしないでしょうか。



快楽主義とエピキュリアニズムと社会改良主義と、その別を問いません。すべて、快楽や快適を目指すところには、その底に利己主義が潜んでおります。刹那的な快楽主義の場合、誰の眼にもそれは明らかです。ですから、大して問題にもならないし、弊害もありまえん。



が、エピキュリアニズムのような個人主義になると、外界にわずらわされぬ「不動の心」というような精神的美徳を表看板にしているので、私たちはその底にある利己過ぎに気づきにくいのです。



さらに、社会主義共産主義福祉国家となると、貧しい人々の利害を考え、「最大多数の最大幸福」というような合言葉が出てくるので、そこ利己主義があるというようなことに、誰も気づかないのであります。



が、それは依然として利己主義であります。快楽や快適を目標とする生き方は、どう転んでも、この利己主義の小さな穴から逃れられはしません。私はそのことを、ここにはっきりさせておきたいと思います。



エピキュリアニズムについての説明から、すでにお分かりのことと思いますが、人々が快楽主義という思想に辿りついたのは、そのまえに、不快という事実があったからであります。不快とは、心理的にもせよ、生理的にもせよ、自分の欲望が妨げられている状態であるといえましょう。


たとえば、自分の好きな人がすでに妻を持っているとする。一般の常識では、これはどうにもならない。すなわち、欲望充足が禁じられているわけです。これに対処する態度は、大別して四つあると思う。


第一は、いないった常識にしたがい、どうにもならないといって泣き寝入りすることです。第二は、常識などくそくらえ、ほしいものは欲しいのだといった態度で、さらにこれを二つに分ければ、好きな男と密かに関係を続けるのと、あるいはその男を妻から奪うのと、そのどちらかですが、大雑把にいって、これを快楽主義と名付けましょう。



第三に、たとえこの場合快楽主義で成功するにしても、欲望には切りがないものであり、そうまでして手に入れた男にしても、いずれは倦きがくるかもしれないし、そうそう欲望にひきずり廻されていたのでは、これまた不快だと観念する態度、つまりエピキュリアニズムです。


第四に、もう少し科学的に考えて、1人の男が一人の女としか関係できないという常識に間違いがありはしないか、常識とはいっても、ことごとに私たちの欲望をおさえつけ、それで苦しむ人が多くなるとすれば、その常識がもう古くて死んだものではないか。



そう疑って、一夫一婦制、ないしは、その根幹となる性道徳を否定し、改革しようとする態度で、これは必ずしも社会主義共産主義を意味しませんが、改良主義という点ではそれらと軌を一にするものです。



これらはいずれも、欲望が妨げられた時の不快を除去しようとする方法であり、態度であります。何度もいうように、そのこと自体はよろしい。が、ここに私たちの見逃してはならぬ重要な問題があります。というのは、私たちの欲望を消すのに必要な対象と、その反対に私たちの欲望の障碍になる対象と、この二つのものが、つねに別々のものとは限らぬということです。



いや欲望のもっとも深刻な段階においては、この二つは往々にして同一物になるのであります。
右に上げた例でいえば欲望を満たすのに必要な対象は、自分の好きな男であり、その障害となっているのは、かれの妻であるかもしれない。が、それは男を手に入れるまでの話にすぎません。男がひとたび自分のものになってしまうと、欲望を満たすのにうような相手が、同時にその障害物であるという事実を発見するのです。



若い人たちの特徴は、大抵のばあい、そのことにまだ気づいていないということにあります。(略)障害物さえ除去すればいいという気持ちになりやすいのです。が、それが手に入って見ると、また別の障碍物があらわれましょうし、それよりも困る事は、あれほど夢中になって手に入れたものが、同時に障碍物であることを発見するうことです。



年をとった世代の憂鬱というものは、この事実と深い関係があります。なるほど、いくら稼いでも楽にならぬ生計というものと、それに対する諦めとからくる憂鬱もありましょうが、その根底には、はやりどうしようもない、もっと人間的な憂鬱が、すなわち欲望の対象が同時にその障碍物であるという憂鬱が、潜んでいるように思われます。」



「単純に考えれば、相手を代えたらいいと思うかも知れません。が、その代わった相手も生き物である限り、事態は同じです。自分の欲望充足の対象に終始し、少しもその障碍物とならぬような、すなわち完全な意味における道具、手段となる存在、そういうものを生き物に期待するわけにはまいりません。


いや、ふつうの意味における道具にしても、家具や衣服にしても、月給や金にしても、それほど完全な手段ではありえない。それらもまた生き物のように、私たちを支配しようとするでしょうし、それ自身の欲望に応じて、ときに私たちを障碍物あつかいにしてくるのです。(略)



人間は人間の道具にはならない。にもかかわらず、快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿り着くのです。



だから、私は快楽というものを、おのれ一人にしか関わらぬ孤独な迷妄だというのです。そこには、自己と道具とだけ、それ以外になにものもありません。快楽を標榜するいり、そして対象との摩擦や相剋から生じる不快感の除去ということに専心するかぎり、自分一人の生活くらい理想的なものはありますまい。自慰行為こそ最大の快楽うことになります。



前章で、私は「家庭からの逃避」という現代の一般的な傾向について語りましたが、そこにも快楽主義の傾向がみられること、申すまでもありません。そして、誰でも夫婦二人だけの「愛の巣」などというものを夢見ている。



それを完璧なものにするためには、子供もうまないほうがいいと思う。生んでしまえば、食わせないわけにはいかないから、うまないで、その金で台所を整備し、寝室を快適なものにしたいと考える。


すでに生んでしまった人は、託児所や、さては子供の国家管理などということに想いをいたす。それなら、いっそのこと、結婚しないで、よろしくやった方がいいということになりそうです。



新婚当時ならとにかく、まさか夫婦間に摩擦や対立の起きないはずはありますまい。それを避けるには、1人の方がいい。自由結婚とかなんとかいう言葉が、たえず人々の夢に描かれるゆえんです。



その他の社会改良の思想にしても、結局は、人間と人間との間の摩擦を除去し、対立を避けようとするところから生まれるものであります。そのことが最高の理想になっています。そういう世界こそ、無上のユートーピアだと思っています。



一方、そういう努力の過程で、人々は孤独をかこちつつある。しかも、その孤独が、その「理想」から出てくるものであることに気づかない。いや、逆に、孤独から逃れるためには、その「理想」の貫徹が筆量だと思い込んで、やみくもにそっちの方へ突進しています。



が、ユートーピアの世界では、私たちは孤独になるばかりです。それは一口にいえば、摩擦のない清潔な貧しさとでもいうものでしょう。
快楽の思想にはなにかが欠けている。私たちはそのことを反省すべきです。皮肉なことに、私たちに欠けているものの一切を埋めようとする快楽思想に、私たちにとってもっとも大切ななにかが欠けているのです。



それは幸福の観念であります。しかも今日ほど幸福だの幸せだのということばが氾濫している時代も珍しい。が、人々は単なる快楽にすぎないものを幸福と呼んでいるにすぎません。



となると、「幸福とはないか」という問題が起りますが、これには誰も答えられますまい。神でない以上、その答えは不可能です。どうも無責任なことになってしまいました。



私はこの連載の最初に、「私のいうとおりの生き方をすれば、必ず幸福になれる」と申し上げた。読者はぺてんにかかたと言われるかも知れません。



厳密にいえば、私の文章は「幸福への手がかり」を暗示しただけです。「幸福とはなにか」ではなく「幸福とはなんでないか」を語っただけです。



が、次のことだけは言っておきたい。私たちが日ごろ口にする「不幸」というのは、ただ「快楽」が欠けているということであり、「快楽」でないということにすぎない。
したがって、私たちは、その意味の「不幸」のうちにあっても、なおかつ幸福でありうるのです。真の意味の幸福とは、そういうものであります。



それは決して「諦め」を意味しません。むしろ逆です。私たちは自分の欲するものを得るために戦わなければならない。その戦いにおいて勇敢でなければなりません。が、今日、「正義」の戦いを称道する人たちの大部分が、ただ勝利のためだけしか考えていない。


そうなると、敗北すれば、全ては犬死であります。「快楽」が手に入らなければ、「不幸」から逃れられねば、救いはどこにもないということになる。
諦めずに、しかも戦うということは、また敗北しても、なお悔いないということは、それだけ抽象的にいうと、大層悲壮めいて聞こえますし、英雄にのみ可能な生き方のですが、実はどんな凡人でもできるつつましい生き方であり、煎じ詰めれば、それ以外に生き方はないようなものなのであります。




悲劇の主人公たちが、非凡な市民を感動させるのは、その理由からでありましょう。誰もが、程度の差こそあれ、英雄のように生きており、それより他に生きようはないからでありましょう。(略)



それなら、ここに、もう一つ別な生き方もあったのだということを憶い起こしてみてはどうか。というのは、将来、幸福になるかどうかわからない。また「より良き生活」が訪れるかどうかわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きて来たのだから、この道を採る_そういう生き方があるはずです。



いわば自分の生活や行動に筋道をたてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」になっても、それはやむをえぬということです。そういう生き方は、私たちの親の世代までには、どんな平凡人のうちにも、僅かながら残っておりました。



この自分の流儀と自分の欲望とが、人々に自信を与えていたのです。「将来の幸福」などということばかり考えていたのでは、いたずらにうろうろするだけで、どうしていいかわからなくなるでしょう。



たまたま、そうして得られた「幸福」では、心の底にひそむ不安の念に、たえず脅かされ続けねばなりますまい。それは「幸福」ではなく、「快楽」にすぎません。



私は「自信」と申しましたが、それは結局は自分より、そして人間や歴史より、もっと大いなるものを信じるということです。それが信じられればこそ、過失を犯しても、失敗しても、敗北しても、なおかつ幸福への余地は残っているのであります。



この信ずるという美徳をよそにして、幸福は成り立ちません。(略)



もちろん、自分を「不幸」な、あるいは「不快」な目に合わせている人間を、私たちは直接に信頼することはできない。ですから、私たちはかれらと戦うでしょう。が、それで敗北しても、あるいはその「不幸」な状態を少しも改良できなくても、人間というものを信じていなければならない。



というのは、最後には神を信じることです。私は別に何々教というものを意味してはません。が、特定の宗教に帰依できなくても、そういう信仰は誰しも持てるものではないでしょうか。



自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな「不幸」のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また「不幸」 の原因と戦う力も出てくるでしょう。



もし、その信仰なくして、戦うとすれば、どうしても勝たなければならなくなる。勝つためには手段も選ばぬということになる。しかし、私たちは、その戦いにおいて、始終、一種のうしろめたさを感じていなければならないのです。



なぜなら、その戦いは、結局は自分一人の快楽のためだからです。あるいは、最後には、勝利のあかつきに、自分ひとりが孤立する戦いだからです。そういう戦いは、その過程においても、勝利の時においても、静かな幸福とはなんのかかわりもありません。



まずなによりも信ずるという美徳を回復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといっても、それは無理です。私の知っていることは、そんなものがこの世にあるものかという人たちでさえ、人間である以上は、誰でも、無意識の底では、その訳のわからぬなにものかを欲しているということです。


私たちの五感が意識しうる快楽よりも、もっと強く、それを欲しているのです。その欲望こそ、私たちの幸福の根源といえましょう。その欲望がなくなったら、生きるに値するものはなにもなくなるでしょう。」


〇 このあとに「あとがき」があるのですが、ここで、この「私の幸福論」は終わっています。さすがに、1950年代に、若い女性の為に書かれた文章だけあって、感覚が古いと感じる部分も多々ありました。
でも、だからこそ、私たちの現在は、この時代を潜り抜けてきている、と感じられました。


最後に書かれている、私たちは「そのわけのわからぬ何ものかを欲している。幸福の根源であり、その欲望がなくなったら、生きるに値するものは何もなくなる」という言葉は、解釈のしようによっては、とても恐ろしいものにもなるような気がします。