読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (あとがき)

「_一人でもいい、他人を幸福にしえない人間が、自分を幸福にしうるはずがない


書き終わって見ると、少々心配になりだしました。私のいうことが、一応もっともだと思ったにしても、それではどうにも身動きできないではないか、そんな感じをいだく人が多いかもしれない。また、私のいうことは理想論で、そうは立派に生きられぬと思う人もいるかもしれない。




その時は、もう一度、「教養について」の中の読書論を参照してください。著者は著者、自分は自分、そういうふうに距離をおいて、この本にたいして自分を位置づけて下さい。無条件な信従より、私はその方をずっと信頼します。



なぜなら、私自身、この書の中に述べた考えにたいして、すなわち私の理想に対して、けっして忠実な実践家であるとはいえないからです。


私もまた、自分の理想と自分との間に距離をおいているのです。この理想通りには生きてはいないが、この理想を立てることによって、自分の存在がはっきり位置づけられるというだけのことです。
理想というものはそういうものだと私は信じています。



よく、理想と現実とが一致しないくらいなら、そんな理想は空虚なものだ、むしろ捨ててしまった方がいいと申しますが、それは早計というものです。現実がそのとおりにならぬからこそ、それは理想といえるのです。



理想とは、それに現実を一致させるためにあるのではなく、それを支点として現実が回転し活動するためにあるのです。また、消極的にいえば、理想とは、現実が混乱しないための枠であり、ものさしであります。



ときに、現実はその枠を破ることがあり、そのもの差しでは計れぬほど複雑になることもありましょう。が、それを強いて枠のなかにいれようとし、物差しで測ろうとすることによって、混乱の整理がつくものです。その程度のもの、すなわち整理のための道具、それが理想だともいえましょう。



たとえば、女は結婚して家にあり、妻として、母として生きるべきだと言っても、そういう私の言葉を文字通りに受け取らなくてもいいのです。それは理想であります。その理想通りに行かないのが現実であり、ことに今日、その傾向が強い。したがって、理想は一つでありますが、個人がそれとかかわる距離や角度は無数にあるはずです。問題は、その「かかわる」ということにある。「かかわり」があればこそ、理想通り生きていない無数の個人に、共通の生き方が生じるのです。



失敗すれば失敗した出、不幸なら不幸で、またそこに生きる道がある。その一事をいいたいために、私はこの本を書いたのです。別の言葉でいえば、自分の幸と不幸とは、自分以外の絵の手柄でも責任でもない。誰もが、いままで誰一人として通ったことのない道の世界に旅立っているのです。



なるほど忠言はできましょ。が、その忠言がどの程度に役立つかどうか、それはめいめいが判断しなければなりません。第一、つねに忠言を期待することは不可能です。



究極において、人は孤独です。愛を口にし、ヒューマニズムを唱えても、誰かが自分に最後までつきあってくれるなどと思ってはなりません。実はそういう孤独を見極めた人だけが、愛したり愛されたりする資格を身につけえたのだといえましょう。冷たいようですが、みなさんがその孤独の道に第一歩を踏み出すことに、この本が少しでも役立てば幸いであります。



高木書房版「私の幸福論」について



この書は「まえがき」の部分を含めすべて昭和三十年から翌三十一年にわたり、講談社の「若い女性」という雑誌に「幸福への手帖」という題のもとに連載したもので、その後三十一年末、新潮社より題も同じく「幸福への手帖」として一冊の単行本にまとめられて出版し、当時二三度版を重ねたまま絶版同様になっていた。



新潮社刊の私の著作集、評論集にも収録されていない。その後、女性誌にはもちろん、その他どこにも人生論めいたものを書かずにきた。ところが、どういう風の吹き回しか、昭和四十二年、版元より再刊をもとめられ、幾分、照れ臭い想いを禁じ得なかったが、全巻を読み直してみて、いかにも私らしいことを言っており、十年の歳月を経ても、私自身の考え方、生き方の本質は、初版当時と少しも変わっていないことを発見し、安心して求めに応じ、装いを改めて第二次新潮社版を世に送った。(略)




昭和五十四年八月二十五日     福田恒存   」



「解説 不幸にたえる術としての幸福論     中野  翠  

福田恒存は一九九四年十一月二十日に亡くなった。
オウム真理教の人々による地下鉄サリン事件も知らず、「援助交際」なる少女買売春に対して世の大人たちがお手上げ状態だったことも知らず、見開きに「愉悦」という言葉が三回も出てくるような空疎でガサツな不倫小説が一大ベストセラーになったということも知らずに亡くなった。



八十歳過ぎて自分の生まれ育った国の醜態を見せつけられること、そして自分が長年の間、営々として書き綴って来たことがほとんど無効にされたことを思い知らされるのは、さぞかし辛いことであろう。



このような醜態がさらけ出されぬうちに亡くなったのは、まだしも幸運だったかもしれない。
福田恒存当人にとっては幸運だったが、私、いや私たちにとっては不運なことである。日本の最良の知性_という言葉は私らしくないかも知れない、もっと自分になじんだ平易な言葉で言おう_懐かしく大きな「よりどころ」を失ってしまったのだ。




福田恒存はこの「私の幸福論」と同じ時期(一九五五年前後)に、日本人の国民性にてこんなことを書いている。
「日本人の道徳感の根底は美感であります」
「私は、日本人のさういふ美感が、明治以来、徐々に荒されていくのを残念におもふと同時に、またそれだけが頼るべき唯一のものであり、再出発のための最低の段階であると信じてをします」
「日本人に「善悪」の問題を識別する抽象化の能力が欠けてゐることはたしかであり、それが調和を愛する感覚的美感によって助長されてゐることもまた疑ひの余地のないところですが、さればといつて、これを土台としないかぎり、私たちは動きがとれないのです」



日本にはキリスト教的な神(超自然的な絶対者としての神)は伝統的に存在しなかった。しかし、その代わりにたくましくデリケートな「美感」があったというのだ。(略)



福田恒存の凄いところは、繊細強靭な「美感」のうえに明晰な論理性が備わっているところである。(略)


ところで、私が最も興味深く読んだのは、「教養について」の章である。
オウム事件といい、「援助交際」といい、例のベストセラーといい、今の日本の不幸は「知識(あるいは情報)はあっても教養がない」_これに尽きるような気がする。
(略)



福田恒存が幸福について語った言葉で、私がハッと胸をつかれ、忘れられないのは、「唯一のあるべき幸福論は、幸福を獲得する方法を教へるものではなく、また幸福の姿を描き、その図柄について語る事でもなく、不幸にたへる術を伝授するものであるはずだ」

というものである。これは「否定の精神」という評論の中の一節で、「私の幸福論」の中には出て来ないのだが、しかし、「私の幸福論」全編は、これ、最もラジカル(根源的な)最強の幸福論_不幸にたえる術としての幸福論を伝授するものである。」



〇快適な状態を願うのは、利己的だ、という文を読み、福田氏は、人間が
普通に生きることさえ利己的だというのか?!と少し「反抗的な」気持ちに
なりました。

でも、そのような言い方で、一番伝えたかったことは、つまり、
「他人を幸福にすること」と「自分の幸福」が分ち難く絡み合っている、
ということなのだと思いました。


だから、この「あとがき」に、_一人でもいい、他人を幸福にしえない人間が、自分を幸福にしうるはずがない_と書いているのだと思いました。


初めて読んだ時のことは、ほとんど忘れていました。

「というのは、最後には神を信じることです。私は別に何々教というものを意味してはません。が、特定の宗教に帰依できなくても、そういう信仰は誰しも持てるものではないでしょうか。



自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな「不幸」のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また「不幸」 の原因と戦う力も出てくるでしょう。」とか、



「まずなによりも信ずるという美徳を回復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといっても、それは無理です。私の知っていることは、そんなものがこの世にあるものかという人たちでさえ、人間である以上は、誰でも、無意識の底では、その訳のわからぬなにものかを欲しているということです。」


「私たちの五感が意識しうる快楽よりも、もっと強く、それを欲しているのです。その欲望こそ、私たちの幸福の根源といえましょう。その欲望がなくなったら、生きるに値するものはなにもなくなるでしょう。」

という内容も憶えていませんでした。

「その欲望こそ幸福の根源」「その欲望がなくなったら、生きるに値するものはなにもなくなる」

いろいろ考えてしまいます。


「私の幸福論」のメモを終わります。