読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

罰というのはルール違反をした人間をこらしめることです。ルールのよくわからない幼児は罰することができません。ガスコックをひねろうとする幼児の手をピシャリとやるのは、罰でなくて、その行為は痛みを招くという、条件反射をつくるためです。


懲らしめることができる人間は、なんらか権威を持つものでなければなりません。権威はルールによって与えられます。


日本のしきたりが決めていたルールでは、親は子供に無限に命令していいことになっていました。子供が家庭で守るべきルールは、親のいうことをきくということでした。
親のいうことをきかない子どもを、親は懲らしめました。人間を個人として尊重するデモクラシーのなかった時代には、親は体罰によって子どもを懲らしめました。


人間の誇りを傷つける体罰を、デモクラシーは許しません。相手と意見が違う時暴力で服従させる「民主主義者」は、デモクラシーを多数決ぐらいに考えているのです。
ルールのわかるようになった子供が、ルール違反をしたとき、デモクラシーのもとでは、暴力によるのでなく、言葉でいい含めるしかありません。


説得しないで体罰を加えると、子どもはルールを理解することを学べません。ルール違反を繰り返さないように説得する親によって、子どもはデモクラシーに必要な説得の技術を覚えます。


親が子供に体罰をくわえないのに、学校の先生が体罰をくわえることがあります。体罰をくわえられた子供の屈辱感以上の屈辱感を親は持ちます。デモクラシーの根本である市民と市民との平等に反するからです。



体罰をくわえる先生は、敗戦によって日本のしきたりが、改められたことを知らないのです。敗戦までは学校で体罰は認められていました。親に無条件に服従するように、子どもは先生に無条件に服従するのが、しきたりだったからです。


敗戦によって日本は変わったのです。敗戦2年後に決めた「教育基本法」の第一条に、
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび…」
と個人の尊重をあげ、「学校教育法」で、「体罰を加えることはできない」と決めています。


体罰を加える先生は、法に違反しているだけでなく、子どもがデモクラシーを理解することを妨げています。
体罰にPTAは抗議すべきです。地区PTAなどと称しプールの当番をしていてはだめです。
「学校できびしくしつけてほしい」
という親は家庭でも体罰を加えているのでしょう。デモクラシーがわかっていない人です。」


〇 松田道雄さんは、繰り返し「敗戦によって日本のしきたりが改められた。敗戦によって、変わった。切り替えなければならない。」と言います。
忠君愛国の精神ではなく、デモクラシーの精神で子供を育てよ、と。

忠君愛国よりも、デモクラシーの方が、人間を幸せにすると思うので、私自身は、そのことに、なんら疑問はないのですが、問題は、「敗戦で変わった」としか言えない、デモクラシーの根拠です。

水戸黄門の「この印籠が見えないか!」によって、「ははぁ~~~」っと、ひれ伏す国民が、「敗戦によってデモクラシーでやらねばならないのだ!」と言われて、「ははぁ~~~」っと、ひれ伏しているのと、同じではないか?と思うのです。

デモクラシーは、言葉で説得できなけれがならない、とありますが、なぜ、デモクラシーを受け入れるのか、戦争に敗けたからなのか。勝っていたら、今も忠君愛国の方が、良かったのか。


そこの議論は全くないのです。そして、一番悲しいのは、その議論が出来ない国民性です。

何度も引き合いに出しますが、「東洋的な見方」から引用します。

すべて普遍化し、標準化するということは、個個の特性を滅却し、創造欲を統制する意味になる。(略)つまりは機械の奴隷となるにすぎない。(略)知性一般化の結果は、凡人のデモクラシーにほかならぬ。」

「知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。」

〇「…真理と正義を愛し、個人をたっとび…」と教育基本法で詠っても、一方で、「凡人のデモクラシー」とか「知性などは…」という本音があるので、
デモクラシー自体が、単なる建前になっていたのでは?と思います。

そして…

「言葉に出さぬとわからないというし、言葉に出すと、その言葉に取りすがってくる。取りすがられると、支離滅裂で、始末におえなくなる。

まことに、人間という存在は厄介なしろものである。が、その厄介な所に、面白味があって、人間生活も捨てたものでない。」(東洋的な見方より)

と、言葉によって、問題解決を図るということを最初から諦めているところがあります。そんな状況で、言葉によって説得する技術が発達するわけがありません。

敗戦直後、為政者も、アメリカも、「教育すること」で、言葉による説得の技術は自ずから身について行く、と思ったのだと思います。


少なくとも、私はそう思っていました。若い頃、日本人の中に道理のわからない人が多いのは、教育が行き届いていなかったせいだと。これからは、もっと知性的な人が多くなり、社会も道理の通った理屈で動くようになる、と。


ところが、全然違いました。為政者や財界人、マスコミ、学者、本来かしこいはずのその人びとが、データを改ざんし、隠蔽し、犯罪をもみ消し、弱い者に罪をかぶせ、自分は逃げる、というこれ以上ない、恥知らずばかりの国になりました。

教育ではダメなのだということが、はっきりわかりました。
もし、デモクラシーが本当に良いと思うなら、多分、そのデモクラシーを生み出した、キリスト教を受け入れることが、一番底になければならないのだと思います。

そこを誤魔化しているので、今になって、日本神道の国にするために、デモクラシーの憲法は変えなければ、と言い出すのではないかと思います。