読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

「結婚スト
結婚の仲介をする企業ができました。式典企業とどこかでつながるのでしょう。申し込みは断然男が多数です。独身の男が、たいへんな時代を迎えていることの、表われです。


結婚年齢になった男と女とでは、女の方が少なくて、男の七割ぐらいしかいません。これは数だけの問題でありません。
女が質的に変わってきたのです。



人間は一度自由の楽しさを知ったら、ヒットラーのようなのが出て来て、国全体を牢獄にでもしなかったら、容易に自由を手放すものでありません。
以前のように学校を出たら、どこにも勤めないで、家で花嫁修業をする娘さんはほとんどいません。どこかに勤めて、月給をもらいます。多くない月給でも貯金していれば、休暇に、京都や奈良へ行ったり、冬にはスキーに出かけたり、夏に北海道を旅行したりできます。



少し長く勤めれば、海外のツアーに出かけることだってできます。買物だって、自分の金で買うとなると、親から、かれこれ言われることがありません。




自由の期間が長くなればなるほど、早く勤めをやめて、専業主婦になった友人の不自由なのが、気の毒みたいに見えます。また、まわりの未婚の男たちを見ると、大抵は、共働きでなくて、家をまもってよく仕えてくれる妻を希望しています。



だが仕えるってどういうことでしょうか。福沢諭吉は90年もまえに、「女大学」を批評していっています(「女大学評論」)。
「元来仕えるというのは、殿様と家来、主人と使用人みたいに上下の身分の違う場合、下級のものが上級のものに接するとき使う文字である。だから妻が夫に仕えるというなら、その夫婦の関係は殿様と家来、主人と使用人と同じで、「妻もまた一種の毛色の変わった下女である」という意味を丸出しにしたようなものだ。我輩の断じて許さない所である」




女が仕事をもって家の外で働いて、自分の力で自由の楽しさを味わうようになって、福沢諭吉と同じ考え方をするようになれたと言えます。
女の方は質が変わったのに、男の方は質を変えていないのです。福沢諭吉が断じて許さないといった考え方を捨てないでいます。



頭が古いのです。結婚情報センターの講習で、女への接し方を習ったら、うまく相手が見つかると思うのが浅はかなのです。事態はもっと重大です。
「頭を切りかえないと結婚してあげませんよ」
といって、女が結婚ストをやっているのです。35~39歳の男の未婚率が、75年に
6.1%だったのが、85年に14.2%になった(国勢調査)のは、その結果でしょう。」