読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

「夫婦げんか
夫婦はけんかをするものです。
デモクラシーというのは、あとくされなく喧嘩をするルールです。平等であっても人は、個性をもった、独立の人間である限り、自分の意見というものがあります。それが自由です。


自分の意見を、相手が誰であっても、はっきりいうのが、平等です。そして相手がどんなことをいっても、それを意見として聞くのが平等です。
意見が違えば、自分の意見を言って争っていいというのが、デモクラシーです。自分が正しいと思う意見をいって相手を納得させるためには、すじ道が通っていなければなりません。


すじ道を間違えないためには、理性を失わずに、話さねばなりません。
理性を失わないようにするブレーキが、相手の人権の尊重です。自分が言い張るのと同じに、相手も言い張って良いのだとする寛容が理性です。意見の違いが、争っても一致しないことがあります。国の政治で、党派が争うときは、多数決で一時休戦ということにします。



家庭で夫と妻とが意見の一致を見ない時は、多数決というわけにいきません。喧嘩をあとくされのないようにするのは、たいへん難しいことです。日本では、きれいに喧嘩するルールができていません。



それというのも、日本のしきたりは、夫唱婦随と決めていて、妻が夫に「口ごたえ」するのは、悪いことでした。「口ごたえ」をしなければ、喧嘩になりません。「口ごたえ」を続ける妻に、男が暴力で黙らせるのを、「つい手を出す」といいます。



昔ほどでなくても、まだ多くの家庭では夫唱婦随です。政治の制度としてデモクラシーがあっても、草の根のことろでデモクラシーにならないのは、夫唱婦随をみて育った子供たちが、つぎつぎおとなになるからです。子供の前で喧嘩するなというのは間違いです。


草の根のところでデモクラシーにしようとすれば、夫婦喧嘩を、平等の立場で、理性的に徹底的にやって、あとくされなくやめるルールを、子供たちに見せることです。



「女のくせにけしからん」
といって、大声をあげて、母親を黙らせてしまう父親を見て育った男の子は、男は女より一段上にいるものだという考えを、心の深い所に刻み込まれます。大人になって就職した会社で、女が男に、おじけずに意見を言ったりするのを見ると、えらそうな女だと思います。
女の子は女の子で、上役にはっきりと、上役と違う意見を言うのをためらうでしょう。


夫唱婦随のしきたりを無くするためには、どうしたって独立戦争はさけられません。その戦争をどんなにうまくやって、あとくされなく終わるか、そのためにどんな修辞学、どんな演技、どんな知恵を妻がみつけるかに、デモクラシーの将来がかかっています。」


〇 この項目の後に、もうひとつ「デモクラシーへの道」という文章があり、あとがきがあって、この本は終わっています。

うちも、わりとよく喧嘩をする方でした。
でも散々言い合いをしてわかったことは、夫と私では、ここで言われている「すじ道」が違うということです。

夫のすじ道では、私が間違っている。でも、私のすじ道では、夫が間違っている。
何故、すじ道(物事の道理とか基準?)が一つでないのか。
そこが問題で、その解決方法がない限り、どんなに頑張って言い合いをしても、
決着は着かない、ということがわかりました。

そして、これと同じようなことが、他の人々の議論を聞いていても、
見られます。

これでは、話し合いをすればするほど、感情的にこじれ、
関係がもつれてしまう、と思いました。


先日、「BS世界のドキュメンタリー ソーシャルメディアの”掃除屋””たち」を見たのですが、その中で、元フェイスブック社のプロダクトマネージャーだったという男性が言っていたことに、心から賛同します。


「今やアメリカでは話し合いすら成り立たなくなってしまった。(略)
全ての市民には、自分なりの意見を持つ権利があった。
でも今や、みんなが自分なりの真実や事実を信じる権利にすり替わっている。(略)

民主主義に必要なのは、共通の行動規範や話し合いの土台となる共通の事実認識でしょう。

行動規範もなく、それぞれが勝手なことを信じていたら、民主主義は成り立たたなくなる。」


これで、「私は女性にしか期待しない」のメモを終わります。