読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(すべて欠、欠、欠…。)

「歩けないことと高熱が、教官・助教にも重病の印象を与えたのかもしれぬ。だが実際は就寝五日ほどのことはなく、腰の痛みがとれれば、単純な軽い夏風邪、普通なら連兵休どころか、逆に”気合”を入れられそうな状態であった。だが軍医の診断は命令だから、命令通りに寝ていなければならない。


有難いと言えば有難かった。従ってこの五日間は、「一人になれるのは便所のなかだけ」という軍隊と収容所における全期間、入営から復員迄の五年弱の期間の、唯一ともいえる”孤独なる安静と思索の時間”であった。従ってこの間に考えたことは、何年たっても憶えている。



卒業まで平穏無事だった私にとって、この一年の変転は、それに対処する心の余裕を持ち得ないほど激しかった。(略)
するとその状態の自分は、意志をもった一人間というより、何やらごろごろした物体の群れの中の一物体で、それらはまとめて選別機のようなものに放り込まれ、ごろごろと拡販されているうちに、気がついてみたら自分がポロンとここへ放り出されていた、といったような感じであった。(略)




私は”幸い”大阪商船に入社できた。かつての郵船・商船は、いまの日航のような花形企業、多くの船を失いかつ軍に徴用されていたその時点では、その実体はすでに最盛時とは違っていたであろうが、報道管制はその実態を知らせず、はなやかな名声だけは残っていたので、競争も激しかった。入社して辞令をもらい、大阪本社で、社内講習を一週間受けた。考えてみれば、これが私の唯一の”大企業経験”である。



これも兵隊に行く者の数が少なかった時代の慣行をそのまま踏襲したものであろう。招集が来ず、そのまま社に残れた者も確かにいたが、大部分は一週間後に休職の辞令をもらい、各自の家に帰った。入営までわずか三日。その間、隣組や町会等の、当時の情勢と週刊では辞退出来ない壮行会やら挨拶まわりがあり、同時に身辺の整理と入営準備を進めねばならなかった。」


「彼は次のようなことを言った。「ここが東部十二部隊、正規の名称は近衛野砲兵連隊である。兵舎は向かって左から第一、第二中隊の順で並び、向かって右の端が第六中隊。中央の建物が連隊本部である……」。言われてみれば七棟の建物が正面に並び、中央の紋章付きの一棟、すなわちわれわれの正面にあるのが連隊本部である。



「第一中隊から第三中隊までが第一大隊、第四中隊から第六中隊までが第二大隊。本連隊は第三大隊は欠である……」。
「おかしいではないか、その表現は……」と私は内心で考えた。それではこの部隊が連隊と称するのは嘘で、近衛野砲兵二個大隊が、その内容に即応した正規の名称のはずではないのか。



それとも何かの事情で、一時的に一個大隊が欠なのであろうか。私は兵営の中を見回した。しかしどう見ても、兵舎の数も砲廠の数も二個大隊分しかない。創立以来、はじめっから二個大隊しかなかったと思わざるを得ない。なぜそれを連隊と称するのか?


これは基本的には誇大表現と同じではないのか?何のためにそういうことをするのか?あの将校はそれを少しも不審とは思っていないのか?私が帝国陸軍なるものに、最初に疑惑を感じたのはこの時であった。


この第一印象は非常に強く、以後何かあるたびに、「これは結局、二個大隊といわず、”連隊だたし一個大隊欠”と言いたがる精神構造と同じことではないか」と毛様になった。
これも事大主義の表われであろうか?最も整備されていたはずの近衛師団がこの有様。そして、私が終戦を迎えた時の第一〇三師団は、一個師団とか何個連隊とかいう言葉を、絶対にそのまま受け取ってはいない。それらはすべて、欠、欠、欠が、幾つとなくつづく存在だったはずである。」




「やがて各人はばらばらに内務班に組み入れられ、噂通りの内務班生活が始まった。そのときの体制は、一言でいえば徴兵検査のあの状態がそのまま延長しかつ酷くなった状態である。だが私は、特別訓練班(略して特訓班)にやられた。簡単に言えば仮採用のような形、試験的にやらせてみて、だめなら除隊という要員である。当時の陸軍は、結核患者を背負い込むことを、極度に警戒していた。」




秦郁彦氏が、第二次大戦のさまざまな”謎”を挙げておられるが、その中に「ナチス・ドイツが最後まで婦人を動員しなかったこと」がある。ナチスの場合は「婦人は家庭に」が一つの思想だったのであろうが、日本の場合、その理由は明確な思想に基づくとは信じがたい。ただ「インテリは兵隊に向かない」は、軍だけでなく、いわば全国民共通の常識で、日華事変のころ朝日新聞に「インテリ兵士は果たして弱いか?」といったテーマの記事がある。



内容は「必ずしも弱くない」といった趣旨のものだが、こういう記事が出ること自体インテリは兵士に向かず、学生は軍人に適さない」という常識があった証拠であろう。軍は最後の最後まで、学生を信用していなかった。しかし、伸び切った戦線、消耗率の高い下級幹部の補充等々で、背に腹はかえられぬ状態になったのが、昭和十七年だったのであろう。(略)



私はまた動かされた。幹候班が編成され、部隊内で幹部教育をうけ、二月の十五日に豊橋へ派遣され、予備士官学校に入校することになった。入営からわずか四カ月半である。(略)



ところが日華事変の途中から、満期除隊・即日招集ということになり、切れ目のない兵役が続く結果になっていた。だがそれでも、その選別と試験は相当に厳しいというのが定評であった_何しろ帝国陸軍の幹部なのだから。



軍は、明らかに何かに慌てていた。それが信頼していないはずの学生の繰り上げ卒業・即時徴集・幹候大量採用となり、さらに、兵としての教育樹をちぢめ、予備士官学校も二カ月を繰り上げ卒業にし、見習士官のまますぐに戦地へ送り出すという結果になった。


従って私の見習い士官の期間は九ヵ月余だが、私の後になると、在学中に「現地教育」の名で戦地に送られている。最も不幸だったのはこの人たちで、その大部分は海没している。」




「ベッドに横たわって四日目、思い返してみれば一切にリアリティがなかった。すべての人が故意に現実に背を向け、虚構の中で夢中で何かを演じ、それによってそれが現実だと信じようとしているように見えた。立派な名称は至る所に並んでいる_しかしすべては欠、欠、欠。
お前たちの一割が脱落することは、はじめから予定に入っトル」でいっさいを無視して行われる猛訓練も、結局はその内容が欠、欠、欠。急ぐと言うなら急ぐ方法があるではないか。ワンセットただし欠、欠、欠、をやめて、現実にそくして重点だけやればよいはずだ。」



「もちろん、本物の士官学校の生徒なら、遠い将来のため、その教育も必要かもしれないし、余裕があるなら幹部の常識教育としては、それもよいかもしれない。が、倒産の危機を迎えた会社の新入社員なら、社長教育おyり、すぐ第一線で使える現場教育が必要であろう。
同じことは、全ての点で言えた。(略)



教育は中隊射撃、大隊射撃、連隊射撃、砲兵段射撃と進み、射法は砲側観測から遠隔観測へと次第に複雑になっていく。しかし、欠、欠、欠の連隊で、果たして、一正面に四十門、五十門という砲を集めて集中射撃を敢行する能力があるのか。」





「まず、概説的に砲兵の射法の全般が説明され、それを頭に入れた上で個々の実技を行って行けば、いま自分が実習していることが全体の中のどの部分にあたるかがわかる。わかればすぐに会得できる。しかし、そういった教育は全くなく、訓練の原則は「馬を調教する」のと全く同じで、説明抜きで個々の実習を積み上げる方式であった。」




「そのくせみな急いでいた。あわてていた。だがリアリティが欠けていた。そこには、はっきりした目標も、その目標に到達するための合理的な方法の探求も模索もない。全員が静かなる自信を持ち得ず、そのため生ずる不安を消すため、わき目もふらず、ただ、今まで駆けていた方向へ、やみくもに速度を増して駆け出しているような感じだった。それは、高熱の中で見た悪夢に似ていた。


足は地に着かず、何かに追われて夢中で前に進もうとしながら、一向に足が進まないあの状態に_。
だがそんなことを考えた五日もすぐ過ぎ去った。また考える余裕のない生活にもどった。五時起床・馬手入・食事・午前演習・昼食・午後学科・馬手入・夕食・食事・自習・水飼い(軍馬に水を飲ませること)・点呼・消燈_そして休息は日曜日の昼食から馬手入までの三時間。その間だけ死んだように眠り、また、同じ毎日が休みなく繰り返されて行く。いつしか七月もすぎ、居眠りをこらえるのが精一杯の八月がやってきた。


だがこの「病床の五日間」は私にとっては貴重な時間だった。この間の思索がなければ、続いて次々に起った奇妙なことを、奇妙とも思わず見過ごしていたであろう。」