読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(だれも知らぬ対米戦闘法)

「奇妙なこと!忘れもしない、それは昭和十八年八月の中ごろだった。雨の日である。教壇に立った区隊長K大尉は、改まった調子で次のように言った。
「本日より教育が変わる。対米戦闘が主体となる。これを「ア号教育」と言う」と。

(略)

私は内心で思わずつぶやいた、「欠だったのだ、これが最大の欠だったのだ」。戦争が始まったのは言うまでもなく一六年一二月八日であり、一八年には、二月にガダルカナル島からの撤退、五月一九日にアッツ島の玉砕があり、欧州では米英軍がシチリアに上陸している。


危機は一歩一歩と近づいており、その当面の敵は米英軍のはず。それなのにわれわれの受けている教育は、この「ア号教育」という言葉を聞かされるまで、一貫して対ソビエト戦であり、想定される戦場は常に北満とシベリアの広野であっても、南方のジャングルではなかった。」




「とはいえ、あの悲惨なノモンハンの実情が赤裸々に語られたわけではない。しかし、教育上の必要から断片的に語られる個々の実例だけでも、その実情が、当時一般に言われていたような「精神力が鋼鉄を制圧した」とか「肉弾が戦車に勝った」とかいう状態とは全く別のものであったことは分かった。



すでに銃剣突撃が全てを制する時代ではなかった。否、そんな時代は一度もなかったのである。



日露戦争は、ほぼ対等の兵器で戦った戦争であっても竹槍対原爆ではない、また海軍では逆に日本の装備の方が優れている面も多かった。一体どこから、あの奇妙な精神主義が入り込んできたのであろうか。われわれを教えた教官自身が、相手の重砲群が壊滅していない限り、突撃とは文字通り墓穴にとび込むだけのことだと知っていた。



_ソビエト軍の陣地は少なくとも三線になっている、歩兵が第一線に突入すれば、相手は第二戦に撤退してしまう。そして次の瞬間その第一線に、徹底的な集中砲火を後方から浴びせる、射弾は実に性格、壕がくずれて生き埋めになる場合さえある、それもそのはず、今の今まで自分の陣地だったのだから完璧な諸元が出ている、突っ込んだ歩兵は進退きわまって立ち往生し、全滅する、と。
おそらくこれも実例だったのであろう。




だが、こう言いながらも不思議なことに、精神力を否定するかに受け取られそうな言葉は、絶対だれも口にはしない。そして、軍隊外の人間には、徹底して口にしなかった。ここには奇妙なタブーがあった。そしてこれは、戦後社会にも存在するある種のタブーと同根のもので、念力ブームを吹き出させた精神構造と、おそらく関連があるであろう。(略)



「ア号教育」という言葉と同時に、それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、一つの確信へと固まって行った。それは「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」という実に奇妙な事実である。これは「事実」なのだ、そして何としても理解しがたい事実なのである_というのは対米開戦を強硬に主張したのが陸軍であって海軍ではないのだから_。」



「問題は「つもり」という言葉である。たとえば土建屋が、建築の手付金を受け取っておきながら、図面一枚ひこうとしないでいて、「私はあくまでも家を建てるつもりでいた」と言っても、それは通らない。軍人が専門職である以上、同じことであろう。



一国の安全を保障しますと約束して軍事費という多額の手付金を受け取り、兵役という負担を課しながら、対米戦闘に関する一枚の図面ももたず、そのための教育訓練の基本的計画さえ持っていないなら、アメリカと戦うつもりは全くなかったのだと断定されても抗弁の余地はあるまい。そして一枚の図面すらないことは、「ア号教育」への転換期とその内容が明らかにした。なぜこういうことになったのであろうか。




「驚きと、疑問の氷解と、腹立たしさ」と私は書いた。驚きとは、アメリカと戦うつもりの全くなかった陸軍が強引に全日本を開戦へと持ち込んだことであり、疑問の氷解とは、なぜわれわれが対ソ戦の教育訓練をうけていたのかという疑問が解決したことである。(略)


K区隊長は、良い意味での、まことに軍人らしいさっぱりした人であり、ジメジメしたインテリ臭がなく、少年のような明るさのある人だった。彼は率直に言った。「ア号教育」と言っても、何をどう教えたらよいのか、実はさっぱりわからんのだ」と。
その通りだった。そしてそれは、たとえ彼がその言葉を口にしなくても自ずと明らかであった。



この世界に仮想敵の存在しない軍隊はない。そして帝国陸軍の仮想敵は一貫してソビエト・ロシア軍であり、また現実にすでに十年以上戦い続けている相手が中国軍であって、演習で想定される主要な戦場は常に北満とシベリアであった。(略)




従っていきなり、ジャングル戦の訓練をはじめよ、などと言われても、第一、演習場も訓練用設備もない。第二に、砲も機材も、零下三〇度になっても機能しうるように造られていても、高温多湿の熱帯用ではなかった。


第三が軍馬である。前述のように、時代遅れのこの輸送用動力は、石油資源皆無と、中国戦線における馬糧の現地調達方式への依存と、厳寒のシベリアでの作戦を想定したため、軍馬方式から離脱できなかったためと思うが、ジャングル内でも被空爆地でも対ゲリラ戦でも、丈の高い軍馬は水牛より始末が悪いだけでなく、日本馬は熱地には抵抗力がなく、バタバタと斃死するだけで、戦力にはならなかった。


だがそれ以上に致命的なことは、何一つ的確な教育も訓練も出来ないことであった。」




「「行き当たりばったり」とか「どろなわ」とか言った言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのが、どうしてこれほど現実性(リアリティ)が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。
そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。


第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。スーズヴェルト、チャーチルスターリン蒋介石ヒトラー_たとえ彼らが、その判断んを誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。



確かに計画には齟齬があり、判断には誤りはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」をはじめたが、何を教えてよいから誰にも的確にはわからない、などというアホウな話は出て来ない。


確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは、一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていない_確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたが_。(略)



考えてみればこの予備士官学校の教育の基本そのものが、奇妙なものだった。というのは学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一二学歴なのである。
なぜこのような方式がとられたか。その原因は戦場で最も多く消耗するのは下級将校、特に小隊長クラスだということである。連帯史などで、階級別戦死比率を調べると、中国戦線では特に、下級将校の戦死比率が異常に高い。下級指揮官を射殺して指揮の末端を混乱させるのは確かに有効な方法であり、従って狙撃の格好の標的となったためと思われる。(略)


だがこの方針を採ったもう一つの理由は、日本が貧乏国だという、如何ともしがたい現実であった。幹候中尉は恩給のつく直前に除隊になるという「使い捨て」の不文律り、これは正確に実行されていた。酷なようだが、最高七百万までふくれ上がった帝国陸軍の中の全下級将校に恩給を支給したら、日本が破産しただろう。




だがそれは、後述するように「学歴を基準とする選抜方式」を正当化はしない。私は、部下を見てしばしば、「なぜ、このような優秀な下士官を将校に抜擢せず、私などを将校にしたのか」と不思議に思った。」



「四門の砲車が、中隊長の指揮下に、横から見ると砲口が一線に見えるほど正確な四列で、早足で練兵場をかけまわる。これがはじまると連隊の全機能は「陛下の御馬前で失態なき事」に集中してしまい、「ア号教育」も招集兵教育も、すべて後回しであった。


だがだれかが危機を叫んで、こんなことではならないと観兵式の予行演習をやめさせたところで、それは危機ムードが高まるだけ、結局は何の変化もなかったに相違ない。私には連隊のすべてが、戦争に対処するよりも、「組織自体の日常的必然」といったもので無目的に”自転”しているように見えた。


事実、この膨大な七十年近い歴史をもつ組織は、すべてが定型化されて固定し、牢固としていてそれ自体で完結しており、あらゆることが規則ずくめで超保守的、それが無目標で機械的に日々の自転を繰り返し、それによって生ずる枠にはめられた日常の作業と生活の循環は、だれにも手が付けられないように見えた。そしてこれが米軍がサイパンに上陸する四カ月前の連隊内の日常であった。



では、危機感がなかったかというと、そうではない。ただ危機感と日常が結びつかなかったのである。そしてそこには結びつかない双方を分担するような形で三種類の将校がいた。


第一は、大声で危機を叫び、危機への認識とそれに基づく自覚の欠如を非難するが、具体的にどこから何に手を付けてよいか一向にわからず、ただ現状に憤慨する、しかしその日々の行動・振舞いは、組織自体の日常の論理に従っている、そしてそれを矛盾と思わない人々。



第二は、軍隊内の生き字引的存在で、規則・先例等の一切をわきまえ、その組織の日常の運営を現実に支配し、これを円滑に動かしている人、この人々には自覚的なエリート意識はなく、無口で態度は控えめだが、強い自信と一種の閉塞性をもち、第一の型を内心では軽蔑している。


第三が、私のような、いわばOL的な存在であった。」



「以上三種類の第一に属するのが、主として士官学校出のいわゆる「青年将校」であった。「軍部ファシズム」というものがあるとしたら、それを支えているのは彼らであったろう。だがその実態は、一言でいえば「ものまねファシスト」であった。彼らはナチス・ドイツの軍部に傾倒し、絶対的に信頼し、讃美していた。そして服装もナチ型であった。元来は平凡な丸い軍帽を、高々と前を上に曲げて、まびさしを短く急傾斜にし、乗馬ズボンの膝横をひどく広げ、ピタリと足に合った乗馬用長靴を履いていた。



いわばナチ・モードで、そのムードに自ら酔っていたわけだが、ナチズムへの知識は、ナチの宣伝用演出写真とそれへの解説以上には出ず、またドイツ国防軍の総兵力・編成・装備・戦略・戦術に関する専門的具体的知識はもっていなかった。


そしてまた驕慢であり、その驕慢さは、パリ・モード模倣者の驕慢に似ていた。不思議なことに、これは常に起こる現象らしい。(略)



松本清張氏が、二・二六事件の中橋基明中尉を一個の「驕児」と記している。事実、彼には前述のような驕慢さ、すなわち当時の青年将校の一面がよく出ているが、この驕児的要素は彼だけのものでなく、全青年将校にある程度は共通していた。(略)


もう一つ見逃せないのは、連隊における彼らへの処遇であった。
当時はまだ大学出が総じてエリートの時代であり、特に帝大出は彼らに劣らずエリート意識が強かったが、しかし多くの者は社会に出た途端に、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。日向方斉氏は入社早々新聞の社内配達をやらされてくさったと聞くが、これらは「私の履歴書」によく現れる体験である。足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ち砕き、本当のリーダーを育てるのに、これは良い方法かもしれない。


だが軍隊にはこれはなかった。少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵がつき、身の回りの世話はすべてやってくれて、殿様のようになってしまう。演習から帰った将校が将校室の机に腰を掛け、足を椅子の背に乗せ、顎をしゃくって「オイ当番」と言えば、乗馬長靴を脱がしてくれる。



これを見た老招集兵が、「二十二、三の若造があんな扱いをうければ狂ってしまう、二・二六が起こるのはあたりまえだ」と嘆じたことは「私の中の日本軍」で記したが、軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれが徹底していた。」




「だがこの挫折なき驕児たちは、閣下であれ、青年将校であれ、どこか宙に浮いていた。日常の兵務を掌握し、この膨大な組織を日々支障なく”自転”させているのは彼らではなかった。


従って驕児たちの激烈な言葉も、また「ア号教育」に関する指示も一向に浸透せずに、この”自転”の前に消されてしまっていた。そしてこの”自転”を司っていたのが、前にのべた第二の型である。だがこの、過激な変革の言葉、急展開を命ずる指示、それと関係なく”自転”する組織という奇妙な関係は、軍隊だけのことではないらしかった。



それをはじめて私に教えてくれたのは、最後の引揚船でフィリピンから帰る時、内地からその船に乗り込んできた復員官であった。陸士出で、かつて大尉だった彼は、はじめて一般社会に出て、結局日本の大組織のすべてが、同じような型だと知ったと言った。(略)



彼はまず、陸軍の末端組織の実情を一つ一つ念を押すように短く語った。「そりゃ、軍、師団、連隊と言ってもこれ分岐していく神経系のようなもので、実際に動く単位は第一線の中隊でしょ。いわば手足ですね。そしてこれを掌握しているのが本当は准尉・曹長、そして日常の兵務は週番下士と週番上等兵がいれば十分なんです。そして将校は、それをどのように自由自在に動かすかを考えるということですね。



そのために戦術を学び、教育訓練を施す。しかし、その組織自体が、当面の敵と当面の戦場にマッチしたものかどうかは、だれも考えなかったんです」
いわば”自転”する組織をいかに動かすかは考えても、長い日中戦争の間、だれも、自転する組織の内実がはたして目的に対応する合理的なものか否かは、考えなかったのだ。


この指摘は確かにその通りであった。いわば将棋の駒をいかに動かすかは考えても、駒の質を根本から変えて別の機能を付与して新事態に対処しようとは、夢想だにしなかった。
従って、昭和十五年戦争のはじめも終りも、軍の基本的体制には何の変化もない。」



「この言葉は必ずしも悪意から出た言葉ではない。彼にとっては、私の申し出がおそらく非常識だったのである。だがそこには、自分の領域には絶対に触れさせない一種の「官僚の縄張り根性」もあったであろう。(略)



そしてもし、本気でアメリカと戦う気なら、まず”自転”する組織を解体して、最も合理的な対米戦闘組織に再編成してから「ア号教育」を実施すべきであって、それをしないなら、一切は上すべり、成果なき無意味な「学習」のはずである。
だが、わかっていて、それが出来なかった。この”自転”を支配していた生き字引は、准尉と、年功だけで一兵卒から叩き上げた無学歴将校たちであった。



小中尉といえばすべて士官学校での「青年将校」だと思っていた私は、入隊してすぐ、口髭の白い「老年小中尉」がいるのに驚かされた。(略)



また私たちが少しも有難がっておらず、わずか二年で手に入れる少尉の肩章を手に入れるために、この人たちは、その生涯の大部分を費やしたのであった。それを思えば、結局はその人たちが掌握している全連隊の、見習い士官への一種の嫌悪感は、当然であったろう。




無口で実直、やや狭量で多少は偏屈、目立たないが内心確固たる自信をもち、差し出口いないが意見もきなない、なすべきことは完全に「先例通り」にやっており、自分には一切手落ちはない、といった雰囲気を全身から発散させているタイプが、この人たちには多かった。こういう人は、すべての要所要所におり、根がはえたようにそこにいた。」




「全く新しい事態に対処するため、確かに幹部教育は必要であったろう。だがそのほとんどは、言わずもがなのわかり切ったこと、そして、いまの組織のままでは、どうにもしようがないこと、また、何らかの最高方針が確立していない限り、言っても無意味なことであった。たとえば次のように言われたとて、だれに何ができたであろう。



「ジャングル戦においては迫撃砲は有利であり、野砲は甚だしく不利である。(略)
しかも発見された場合、迫撃砲はすぐに分解・退避が可能だが、野砲は樹林に囲繞されて身動きができなくなる等々々」


これを聞いて青年将校はいらいらし、危機感ばかり否応なく高まるが、現実には、何をどうすることもできない。どこかに八つ当たりするのがせいぜいである。」



「やることなすこと、すべてチグハグ、一切が相手の出方への反射的対応で、総合的計画性はない。従ってセミナー自体が、創造的に活用できず、訓練に直結させることさえできない。」



「だが、考えるひまも研究する余裕もない。起立・礼で解散になる。すぐ午後の日華となり、昨日と同じように砲車は錬兵場を早足で駆け、私は六人の観測手に、磁針方向板の整備・撤収の練習をやらせている。(略)


みな、危機感を抱きながら結局は、その日暮らしになる。そしてそのためには一つの心理操作が必要であった。




二月一日、米軍はマーシャル群島に上陸、クェゼリン・ルオット両島の守備隊は全滅した。敵は着実に一歩一歩と前進して来るのだが、このころになると逆に危機感がなくなり、アッツのときのようなショックは、だれも感じなくなっていた。「危機なれ」というのであろうか。人間にはまことに奇妙な「なれ」がある。




そしてこのように徐々に危機が迫る時は、不思議にだれも「狼が来る、狼が来る」とは言わなくなる。逆に「大丈夫、大丈夫」「平気、平気」の声があがる。」




「それはちょっと、石油ショック後のある時期と似ていたかもしれない。ショックを手も、日常生活に変化がなければ、人はすぐショックを忘れる。そして、それまで年中”危機”ふぉ売り物にしていた人々が、不思議に危機を口にしなくなる。人々は何となく現状が半永久的につづくような錯覚を抱き、「あの部隊はうまくやっている」「あの企業はもうけすぎている」というようなことが逆に気になって来る、と言った状態であった。



「現実を見ろ」と人は言う。しかしそれは、絶対にたやすいことではない。特に組織の”自転”の中では、それは不可能に近いことであろう。人に本当の現実が見えるのは、一瞬「我に帰った」時だけかもしれない。(略)



その時私はまた一瞬「我に帰った」。だがすぐさま、超多忙ともいうべき出発準備の中に巻き込まれて行った。」



〇 「ジャパン・クライシス」を読み、危機感を持ちながらも何も出来ない今の状況ととても似ていると感じました。
あの原発事故や、安倍政権の犯罪的数々の問題に対しても、「危機なれ」もあります。

日本の組織は”自転”するばかりで、問題に対処することが出来ない。


だからこそ、この「課題=財政危機」はクリアして、少し「成長」すると、日本も、大人になれるはずなのですが。あの橋爪氏と小林氏の本が一番言いたかったのは、それなのではないかと、感じました。いつまでも、何もできない、しないままの国民でいいのか!?と。