読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(死の行進について)

野坂昭如氏が「週刊朝日」50年7月4日号で沖縄の「戦跡めぐり」を批判されている。全く同感であり、無神経な「戦跡めぐり」が戦場にいた人間を憤激させることは珍しくない。



復帰直後のいわゆる沖縄ブームの時、ちょうど同地の大学におられたS教授は、戦跡への案内や同行・解説などを依頼されると、頑として拒否して言われた。「せめて三十キロの荷物を背負って歩くなら、まだよい。だがハイヤーで回るつもりなら来るな」と。


同教授はかつて高射砲隊の上等兵であった。末期の日本軍が十日近くかかって這うように撤退した道も、ハイヤーなら一時間。「そこを一時間で通過して、何やら説明を聞いて、何が戦跡ですか。その人はその地に来たかもしれないが、戦跡に来たのではない。それでいて何やかやと深刻ぶって書き散らされると、案内などすべきではなかったという気がする」と。



その通りである。戦争において、今の人に一番わかりにくいのはこの点ではないかと思う。事情は比島でも同じである。たとえば有名な「バターンの死の行進」がある。これは日本軍の行った悪名高い残虐事件で、このため当時の軍司令官本間中将(当時)は、戦犯として処刑された。


ではこの残虐事件の現場を、ハイヤーで通過したらどうであろうか。おそらくその人には、この事件も処刑の理由も、何一つ理解できないであろう。それではもう「戦」跡ではない。



この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全工程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。


武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日ニ十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻政信・私物命令事件」を別にすれば_。


ハイヤーでそこを通過した人は、簡単に断定するであろう。「それは勝者のいいがかり、不当な復讐裁判だ」と。だがこの行進だけで、全員の約一割、二千と言われる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。


三カ月余のジャングル戦の後の、熱地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。まして沖縄での撤退は_確かに、ハイヤーで通過しては戦跡でない。



だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われた時の我々の心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的規準では温情をもって待遇したからである。



日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのは当たり前であった。そしてこれは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。


_こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄への行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」。


当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。」




「この「差」は本当に説明しにくい。子供がレービンの絵「ボルガの舟曳き人夫」を見、その悲惨な姿に「ひどいなあ、これじゃ革命が起こってあたりまえだ」と言う。
私は思わず「ひどいもんか、日本軍はもっとひどい。第一、舟ならエンカンで殴り倒される心配はない」と言う。



「エッ、エンカンって何、だれが撲るの?」ときかれただけで、この一事の説明ですら不可能に近いと一種”絶望的”になってしまう。_エンカン、轅稈、それを横だきにしたまま、精根つき果てて放心したように土に膝をついている一兵士の蒼白の顔_それを見たのは、確か昭和二十年の一月中ごろのことであったが_




重荷なき百キロが「死の行進」で、三十キロ背負って三百キロが「地獄の行進」なら、そのうえ、三トンの砲車と前車を「舟曳き人夫」のように曳いて三百キロ歩くことは、一体、何の行進と言ったらよいのか。



それはもう、それを見た者以外には、想像できない世界である。私は後述する”死の転進”をせず、アパリ正面の陣地に残されたが、その転進がどんな情景になるかは、これから転進しようとする人たちよりも、よく知っていた。



部隊はジャングル内の陣地に入ったが、私だけtが後方連絡と補給のため五号道路(国道)ぞいの小家屋に残っていたため、ゴンザガ東方に上陸してバレテ峠へ向かう第十師団の砲兵の「地獄の行進」を、すでに見ていたからである。(略)



すでに雨期、しかも昼間は行動不可能、夕方から明け方にかけて、全身濡れねずみになりながら、彼らは続々と南下していく。雨に打たれてさえ、はっきりわかる、若々しい元気な現役兵。すべてがきびきびしており、南方ずれ・戦地ずれしたわれわれの目には、まるで本物の「日本軍」が出現したように見えた。



「さすがは関東軍の精鋭だ、おれたちのような員数師団とはわけが違うな」などと言いつつ、彼らを見送っていたが、いつまで経っても砲兵が現れない。


まさか「砲兵抜きではあるまいに」などと言っていたところ、一月中旬の珍しく雨の降らぬ静まり返った深夜、横にいたO伍長がいきなり「砲兵だ」と言った。耳をすますと「コト……コトコト……コト…」というあの独特の車輪の音がする。これは日本軍の砲車が、砲架の下の車軸に木製・鉄環の車輪をはめ込んで止めただけというお粗末なものだったので、動くたびに車輪が細かく左右にずれて留金にあたり、絶えず「コトコト」という独特の音を立てるからである。



車輪と軸受けが、原理的には徳川時代の大八車と同じだから、南方では馬はダメだと言っても、すぐにトラックで曳行するわけにはいかない。車軸が焼き切れてしまう。車輛舞台に改編する場合は、ベアリング入りゴムタイヤの四輪トロッコ上に砲車を乗せて引っ張った。



車輪の上にまた車輪が乗る、この珍妙な機械化部隊の写真は、古いグラフ誌などに載っているかもしれない。が、そのトロッコも曳行するトラックも、すでにない。だがこの「コトコト」は、当時のわれわれには、懐かしい音であった。(略)



彼は言った。「おたずねしたい。この付近で軍馬は徴発できぬか」。「エ、エー」驚いた私は、尻上がりの変な声を出した、「グンバァ」。相手の言っていることが余りに非常識だったからである。


だがそう言ってから、これは余りに失礼と気づき、相手を家に招じ入れた。
暗い灯火の下で、長い船艙生活と今日までの臂力搬送(人力曳行のこと)の指揮で、すっかり憔悴し切った髭だらけ垢だらけの顔で、目だけ光らせながら彼は言った。


船腹に余裕がないから馬は積載できぬ。現地で徴発せよと言われてきたと。だが、ゴンザガ東部の海岸に上陸して見ると、馬はもちろん、人の子ひとりいない。上陸以来、はじめて会ったのが貴官であると。



「またか」私は内心で叫んだ。そしてイライラして来た。何度も何度も私自身がこの種の煮え湯を飲まされてきた。比島が、まるで兵器・弾薬・食糧・機材の厖大な集積所であるかのような顔をして、「現地で支給する」「現地で調達せよ」の空手形を濫発しておきながら、現地ではその殆ど全部が不渡り、従って私はもう、何も信用していない。



そこへ、「現地で軍馬を徴発せよ」と命じられたのだから「現地で軍馬が徴発できる」と今の今まで本気で信じ切っていた人間が現れたのである。(略)



比島には馬はいない。いるのは、人力車に毛の生えたような小馬車をひく特殊な小馬(ポニー)だけで、これを何頭つないだとて、到底十五榴の重輓馬の代用にはならない。だがそれすら、もういない。


「馬がいなくても水牛が使えると聞きましたが……」と彼は哀願するように言った。私は答えた。確かに現住民は、重い車をひくときは水牛を使う。だが、水牛は時間を無視した南方式単距離輸送以外には使えない。


理由は、一日三時間は水に入れてやらねば、すぐ弱ること(汗腺がないため?皮膚呼吸ができないため?)。第二に、濃厚飼料を受け付けず、生草すなわち地面に生えている草しか食わぬ。従って食餌量が膨大なうえ携行は不可能、しかも食餌に長時間を要する。


第三に蹄鉄をつけていないから、堅い石だらけの道路はごく短距離しか歩かせられない。第四に、以上に応じた管理法と馭法がわからぬから、現地人もともに徴用しなければ、すぐ廃牛になってしまうこと。(略)



彼は半信半疑で私の言葉を聞いていた。そして、うめくように言った、「せめて後馬だけでも何とかしたい」。
私は黙った。そして彼に対して切り口上だったことを恥じた。彼の言葉がどれほど切実かはよくわかる。この言葉はドライバーが「せめてハンドルだけはつけてほしい」と言っているに等しいからである。」




「大きな方向転換はもちろんまず前馬の向きを変えることではじまるが、小さなハンドルさばきは、一に、後馬馭者の鞭と手綱にかかっている。砲車は前車に繫駕(連結)して四輪となるが、その状態は四輪車というよりむしろトレーラーに近い。


この前車の前部の中央から、ほぼ後馬の体長いっぱいに太い頑丈なカシの棒がのびており、先端に鉄鎖が二本ついている。これが最初に記した轅稈で、轅稈端の二本の鉄鎖が、後馬の輓具の胸の付近に連結している。これがこのトレーラーのハンドルで、また急ブレーキである。



馬を右によせれば轅稈も右方向へ向き、それによって前車が右へ進むから、砲も右へ引っ張られて行く。左へ曲がる時も同じである。また急停車のときは力いっぱい手綱ひいて後馬に前肢をふんばらす。すると勢いのついた砲車に押されて、轅稈はぐーんと前に突き出る。


轅稈端の鉄鎖が輓具についているから、馬がふんばってくれるかぎり、砲車はとまる。ただ反動でブーンと轅稈端がはねあがり、鉄鎖が千切れそうにピーンとはる。従って後馬は、馬格が大きく力もある最大最強の重馬である。(略)








臂力搬送(人力曳行)は、短距離ならばもちろん不可能でない。このときトレーラーのドライバーは、轅稈端の鉄鎖をでロ-プで轅稈に縛り付け、そこを左わきにかかえ、同時に右手でぐっとこれを押さえて体に固着させ、体ごと左右に移動して「運転」する。そして他の砲手は、砲に曳索をつけて、「ボルガの舟曳き人夫」のような姿勢でひく。



豊橋でもこれをやったことがあるが、通常これは訓練よりむしろ処罰であって「気魄がたらん!なんだその動作は。それで将校生徒か!蒲郡まで臂力搬送」と言った場合に行われるのが普通であった。


平坦な舗装道路でも、轅稈端の保持はきつい。道路の凹凸によって前車の右車輪・左車輪が交互に前に出るような形になると、轅稈端は絶えず右へ左へとものすごい力でぶれる。いわば、体ごとハンドルにふりまわされる。これが悪路で一方の車輪がごろんと凹部に落ち込むようなことになると、轅稈端は、人間をはじきとばすような勢いでその方へぶれる。まして一方の車輪が溝に落ち、前車だけがぐるっと六〇度もその方向へ向き、そのとき、ついうっかりして轅稈をしっかり抱いていないと、文字通りに轅稈に撲り倒される。


何しろ、馬二頭で行う方向の維持・転換・制御を一人間がやるのだから_。(略)



「せめて後馬だけでも…」そういった彼の部下が歩いて来た道_ゴンザガからドゴの三差路へ出て、五号道路を私の所まで_は、どんな道だったであろう。(略)

従って五号道路はズタズタ。戦車壕・対戦車地雷・対戦車陥穽が左図のように作られ、しかも九月から始まった雨期は、それを、もう道路とは言えないような状態にしていた。(略)



この道を、夜間、雨の中で、轅稈を人間が横だきにしながら砲車をひいてくるとは_これはもう拷問とも「地獄の行進」とも言えぬ、それ以上ひどいことで表現の方法がない。


「これから先には、対戦車陥穽はありません、しかし……」と言って私は口をつぐんだ。もっとひどいものがあるのだが、少しはホッとしたらしい彼に、もう、何も言うにしのびなかった。(略)



彼は、覚悟をきめた、というより、自己の意志で自らの思考を停止させたように見えた。「思考停止」、結局これが、はじめから終わりまで、帝国陸軍の下級幹部と兵の常に変わらぬ最後の結論であった。そして、私の部隊がバレテ峠へ転進するときの、部隊長・指揮班長の態度も、また最終的にはサンホセ盆地への撤収以後の私の態度も、同じような「思考停止」であった。



そして兵士は、それ以前から「思考停止」であった。O伍長以下は、全員で湯をわかして彼らの水筒を満たしていたが、一行が去ってしばらくして、私は、最初なぜ曳索をひく兵の姿が見えなかったかの謎がとけた。


全員が、暑気と過労で下痢をしており、「小休止」と同時に間髪いれず曳索を放り出して、道路わきでしゃがんだからである。そうなるともう動くだけの無感覚人間である。(略)



あの行進を知っている私にはこの言葉は少しも不思議ではない。それは、私への悪意ある言葉ではなく、拷問の果てに殺される者が、あっさりと首を斬られて安楽死した者を見て羨むに等しい言葉である。この行進をやらされたら、だれだってそういうであろう。



そしてこの「思考停止」は、兵・下級幹部・上級者へと、いわば下から上へと徐々にのぼっていく。


なぜああなるのか、なぜ思考を停止せざるを得なくなるのか。「戦争とは結局そんなもんだ」ではない。今の今まで「絶対にやってはならない」と教えかつ命じていたそこのとを、最後には「やれ」と命ずるから思考停止になる。否、そうせざるを得ない。(略)



人は全知全能ではないから、判断の誤りはありうる。指揮官とて例外ではない。従って、それを非難しようと私は思わない。だが今の今まで「絶対にやってはいけない」と判断を下していたそのことを、なぜ、急に一転して「やれ」と命ずるのか_


「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃
させたのか。「相手の重砲群の壊滅しない限り突撃をさせてはならない、それでは墓穴に飛び込むだけだ」と言いながら、なぜ突撃を命じたのか。


「裸戦車(空軍の援護なき戦車)は無意味」と言いつつ、なぜ裸戦車を突入させたのか。「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほど言っておいてなぜ、観測機材を失い、砲弾をろくに持てぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。



地獄の行進に耐え抜いて現地に到達したとて「無力」ではないか。無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。


_戦艦大和の最後は、日本軍の最期を、実に象徴的に示している。出撃の時、連合艦隊参謀の説明に答えた伊藤長官の「それならば何をかいわんや。よく了解した」という言葉。


結局これが、その言葉を口にしようとしまいと、上級・下級を問わず、すべての指揮され、命令され、あるいは説明をうけた者の最後の言葉ではなかったか。あの晩、私の説明に対して、あの中尉も、心の中で言ったであろう、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と。「後馬だけは絶対確保せよ」と教え続けた人間が、後馬なしで彼を放り出したのだから。



「確かに、それまで言い続けたことが虚構で、それを主張した本人が自分でそれを信じていないなら、そしてそれで支障ないなら「どーってことない」であろうが、戦争はフィクションではない。だが戦争以外の世界も、最終的に虚構ではない。



その証拠に、もし次のようなことが起こったらどうするつもりか。いま多くの団体も政党もマスコミも、平和憲法は絶対守れと教えかつ言い続けている。だが、私は過去の経験から、また「精神力への遠慮」に等しきある対象への遠慮からみて、その言葉を、それが声高であればあるほど信用しない。一番声高に叫んでいたものが、何やら”客観情勢の変化”とかで、突然クルッと変わって、自分の主張を平然と自分で否定する。


それが起らない保証はどこにもない。それでよいのか。そのとき「それならば何をかんや。よく了解した」と言って、かつての我々のように黙って「地獄の行進」を始めるつもりか_方向が右であれ左であれ。



その覚悟ができているなら、この問題はそのまま放置しておいてよい。憲法だけは例外だなどということは、ありえないから。」


〇 先日あの「ジャパン・クライシス」を読んで私は言いました。「(官僚たちは何もする気がないらしい。ハイパーインフレを凌ぐ方が楽だからと。)…と言うのなら、私はそれを受け入れる」と。

それは、まさにこの境地です。
でも、私だって、あの3.11の時、日本人はもっと立ち上がるだろうと思っていたのです。そして、その後のあまりにもひどい安倍政権のありように、もっと皆が怒って行動するだろうと思っていたのです。

私の周りの人はほとんど、行動しません。
そして、今も安倍政権は続き、原発は次々と再稼働されています。

みんなで、力を合わせなければ、何も変えられない。
でも、「力を合わせるみんな」はこの国にはいない。


そうなると、もう、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と言って、
「思考停止」して、ただ今日を生きるしかなくなります。


それでも、心の底の希望は、消えそうで消えません。いつか「力を合わせて」みんなでもっと良い国にしようとする、本物の民主主義の国になったらいいなぁ、
人権が守られる国になればいいなぁと願っています。