読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(一、軍人は員数を尊ぶべし)その1

「移動の時は、身軽な歩兵は砲兵よりはるかに速い。彼らの陣地はバタバタと撤収されて行くのに、砲車はまだジャングルから5号道路まで引き出せない。一方、カガヤン川左岸のゲリラはこちらの動きを察知したらしく、威力偵察らしい”誘い”の攻撃を仕掛けてくる。(略)



これでは丁度「師団が宙に浮いた」そのときに、米軍がアパリに上陸することは、覚悟しなければならない。S中尉は暗い顔で言った。「戦争は員数じゃないんだが……」と。だがその言葉には諦めに似た響きがあった。



S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特の意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。このイズムは、もうどうにもならない宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでも言うべきもので、戦後、収容所で、日本軍潰滅の元凶は何かと問われれば、ほとんどすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。



そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでいた。もちろん私も、むしばまれていた一人である。(略)



軍人勅諭には「一(ひとつ)、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」に始まり、礼儀・武勇・信義・質素を説いた「五条の教え」があって「五条の教え、かしこみて…」という軍歌もある。




だが五感のほかに見えざる第六感がある如く、書かれざる第六条があり、それは「一(ひとつ)、軍人は員数を尊ぶべし」だというのが「六条の教え」の意味である。これは、軍隊に対する最も痛烈な皮肉の一つであったろう。



だが元来は員数とは、物品の数を意味するだけであって、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである。



それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていればいれば不問」へと進む。従って「員数を合わす」ためには何でもやる。
「紛失(なくなり)ました」という言葉は日本軍にはない。


この言葉を口にした瞬間、
「バカヤロー、員数をつけてこい」
という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである。この盗みのことを、輓馬隊では「馭してくる」とも言った。


いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは公然の秘密であった。(略)
盗みさえ公然なのだから、それ以外のあらゆる不正は許される。その不正の数々は省略するが、これは結局、外面的に辻褄が合ってさえいればよく、それを合わすための手段は問わないし、その内実が「無」すなわち廃品による数合わせであっても良いということである。



員数検査はもちろん命令である。それに対して、「員数があってます」という報告さえできれば十分だということは、とりもなおさず、どんな命令に対しても、形式的に不備のない報告を出せばすむということになる。これが普遍的な意味の「員数」という言葉で、S中尉が口にしたのはその意味である。」


(つづく)