読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(私物命令・気魄という名の演技)

「神保中佐は正式の文書が来てもなお、一種の第六感で、「だれかが勝手に作った命令(すなわち私物命令)じゃないか」と思った。そしてそのヒントは前記の引用に傍点を付した部分※、 すなわちバターン戦終了時に、どこからともなく発せられた捕虜殺害の”軍命令”実は「私物命令」だったわけである。


現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻政信中佐であったことが明らかである。以下に記すのは「戦争犯罪」(大谷敬二郎著)の中の記述だが、このことの大要は戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。


従って私などは、戦後のはなばなしい辻政信復活に、何ともいえない異様さと絶望を感じたことは否定できない。この奥には何か、日本軍も戦後人もともにもつ弱点があるはずである。次にその部分を引用させていただこう。」


「……このとき((昭和十七年四月九日・バターン米軍降伏のとき)、大本営参謀の肩書を持つ、マレーに戦った作戦参謀辻政信中佐は、シンガポールから東京に赴任の途中、ここに現れて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各級指揮官に”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。


第十六師団長森岡中尉もこの勧説をうけたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、これを督励する。当時第十六師団法務将校であった原秀男氏はその状況を、


(その参謀は)現地に行って直接連隊長以下各隊長に”全部殺せ”と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、その参謀の言うことは師団長の命令ではないと、いちいち取消して廻る騒ぎだった」(出陣における捕虜の取扱知識」「偕行」四五年九月)


と書いている。また、この戦闘に奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も、その著「支那事変の回想」の中に、この四月十日朝からの捕虜の状況を、次のように描写している。


「わが連隊にもジャングルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を超えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。



とくに、連隊長を指令した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予想し緊張して受話器を取った。付近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。



電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。



その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元に居る米比軍投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ」というものである」と書いている。



今井は、投稿捕虜を一斉に射殺さよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。



そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ、だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
もちろん、この命令も辻参謀の私物命令で正直な松永参謀が大本営命令と信じたのであろう。


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神保中佐が言っているのは、この事件のことである。戦争直後から小野田少尉まで、何と言っても敗戦を信ぜず、なかなかジャングルから出てこようとしなかった例は少なくない。これらはしばしば「神州不滅・大東亜百年戦争」を信じ切っているのだとか、「戦陣訓」のためだとかさまざまに断定され、「軍国主義教育の恐ろしさ」の証拠とされつづけた。



だが、「出て来ない」原因は決してそのように一律だったとは思えない。おそらく千差万別であろうが、その中の多くに、実際には、戦場を横行するデマと”命令”への不信が大きな要素であったろうと私は思う。というのは、神保中佐であれ私自身であれ、本当の命令かどうか、まず疑う習慣がついていたからである。



と同時に後述するように「本土決戦の捨石」と自ら信ずることによってその苦難に耐えていた者にとって、不意に来た「終戦・降伏」の命令は、口頭ならもちろんのこと、たとえ文書で来ても、一瞬、疑いの目をもって見られて不思議でない。従ってこれらの前提は決して、単純に割り切れないのである。」

(つづく)

辻政信は「ノモンハン」の実質的責任者でありながら、なんの責任も追及されず、太平洋戦争においても、「ノモンハン」の時と同じような力を発揮していたようです。また、戦争に一役買った人が復活する問題については、「私は女性にしか期待しない」でも、触れられていました。

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けれども、それからの40年は、また昔の教育への逆戻りでした。しきたりに合わない民主主義をいやがる人たちの力が強かったのです。政府にも、戦争をするのに一役買った人が返り咲きしてきました。

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※ 「あれは誰が出したか当時はついにわからなかった」「おれはそんな命令を出した覚えはない」と言う部分に傍点