読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(参謀のシナリオと演技の跡)

「考えてみるとそれも六月だった。だが、正確な日付はおぼえていない。
徴兵検査が六月、予備士官学校のベッドでも思索が六月、輸送船が六月でマニラ上陸が六月十五日。また六月が来て、あのひからもう三年がすぎていた。



そして私は「天の岩戸」の底で、死んだような眠りから覚めたところであった。ごうごうと爆音をたてて、グラマンの編隊が上空を旋回しているのが、木立の隙間から見える。「フン、狙ってやがる」「狙うだろうさ、ここは丁号道路の出口だからな」「やつら、知っトルんじゃろうか。この道を」「知っとるじゃろ、ピリのスパイだらけじゃから……」。目が醒めたのは、爆音と話し声のためだったらしい。



日本軍は、行く先々に勝手な名をつけた。この「天の岩戸」は、ジャングルの中に隠れていた鍾乳洞らしい洞窟の名である。(略)



最初の予定ではここが、師団の最後の複廓陣地のはずで、軍隊につきもののデマによれば、この洞窟の奥には三年分ぐらいの糧秣が隠されているはずであった。だが現実にこの場に来て、ジャングルの中でポカっとそこだけ木がない広い円筒の底に立ち、人の丈ほどある草をかきわけ、裂け目をのぞきこむと、うすぐらく横に広がる裂け目の奥にかすかに見えるものは、露営の残骸と人糞と汚物、放置された腐乱死体と、捨てられた病人だけであった。




E曹長が鏡を取り出し、陽光を反射させて中を調べた。光の円筒が当たる先には、水滴のつたう岩壁、焚火の跡、真っ黒にハエがたかる死体、不意の反射光に驚いてこちらを向いた幽鬼のような顔などが、円い光の環の中に一瞬姿を現し、またうす闇に消えて行った。


おそらくもう気が狂っていたのであろう。その病人は、不意に光に反射的に軍隊的習慣が出たらしく、「自分の前にある死体は半島出身の軍属であります。枕にしている鞄の中身は、十万ペソほどの軍票であります」と軍隊口調で言った。


その声につられてE曹長は、反射光をまたその死体にあてた。確かに黒鞄を枕にしており、死後二日か三日。体内にはすでにウジが発生しているらしく、どす黒く変色した顔は、そのまぶただけがピクピクと動いている。ウジが中をはい回っている証拠である。


不思議に屍臭は少なく、風は、底知れぬ洞内に吹き込んでいるように思われた。「道理で……、火を焚いて野営をするのには絶好の地だったわけだな」と私は思い、ここを宿営の場と決めた。疲労と栄養失調は人間を徹底した無感動にする。そして最後には、母親さえ子供の死に無感動になる。戦後、ある生物学者のこういった記述を読んだ時、私はこの日のことを思った。


われわれ二十人が、すでに敵中に孤立しているらしいことは、わかっていた。アパリ正面の陣地を撤収し、サンホセ盆地に向けて”進撃”せよとの撤退命令が来た時、われわれはまた途方にくれた。



歩兵は早い。彼らはジャングルの伐開路丁号道路をぐんぐん歩いて去って行く。だた、たとえ旧式山砲二門とはいえ、砲と砲弾をかかえたわれわれはそうはいかない。その砲兵の中でも一番遅れるのは、水牛と人力で砲を引く戦砲隊である。


そしてこの苦難の撤退が、私の軍隊生活における唯一の、「砲車小隊長の機動指揮」の経験であった。スタッフというものは苦しいようでも決断の責任はない。決断は指揮班長か、部隊長に求めればよい。だが、指揮官はそうはいかない。そして、E曹長あ決断を求められたのが、この「天の岩戸」についた時であった。」