読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(最後の戦闘に残る悔い)

「だが後で考えると、実に奇妙なことになっていた。掃討戦ともなれば、米軍はまず前哨を叩き潰して、ジャングルの出口に封をし、死に物狂いの逆襲を阻止しておく。ついてニューギニア式にドラム缶でも落して、ジャングル内の日本兵を焼き殺すつもりだろう。となれば、まず叩かれるのは当然に私のはずである。




私は自分を前哨と見なし、そう考えていたのだが、米軍は、I少尉以下十名を前哨、私を第二線と見た。これは当然だが、彼にも私にも奇妙な錯覚があって、私が前哨だから、私が先に襲撃されるようなつもりがあった。



言葉の錯覚による自己暗示であろう。その結果、彼は襲撃され、包囲され、死んだ。そして私は生きて帰った。



最初に記したように、それは八月十二日、時間は午後四時ごろであった。私もマラリアにかかっていたが、幸い三日熱なので、「オコリで震えがくる」のは二日おきである。大体午後の三時ごろから四十二度近い熱が出て、悪寒で全身が震え、唇が紫色になって、歯の根が合わなくなる。




それが四十分ぐらいつづくと、次に一転して、全身がカーッと燃えるように熱くなり、滝のように汗を拭き出し、喉はカラカラになる。そして水筒を二本もあけると、恐るべき脱力感で動けなくなる。これが合わせて約二十分、総計一時間の”拷問”である。




この苦役がやっと終わり、仮小屋の床からふらふらと身を起こしかけると、目の前に、にっこり笑った顔があった。I少尉であった。
陣太刀のように背に軍刀を負った彼は、丸太を並べ、その上に軍用毛布を広げた小屋の床に靴底製のわらじをはいた片足をかけ、「元気を出せ、おい、山本少尉」と言った。熱発直後の人間は亡者のように見える。彼は私が、精神的にも肉体的にもすっかりまいっていると見たのだろう。




「長期持久じゃぞ、軍の布告にもある通り、最後の最後まで頑張るんじゃ。投げちゃいかん。無駄死にもいかん。オレたちがここで頑張り、一兵でも多くの米兵をここに引き付けておく限り、敵の本土進攻はそれだけ遅れる。頑張って頑張って頑張り抜け。そうやってオレたちが命を縮めれば、家族の命はそれだけのびるんじゃ


そのときは何の抵抗もなくこの言葉を聞いたが、後で考えると、子の最後の言葉は何か変である。また長期持久が軍の方針だったとはいえ、彼の言ったような布告が出たとは考えられない。だが彼と同じように、何かこの種の布告が出たと考えていた者は、非常に多かった。



これはルソンだけでなく、ネグロス島でも同じだったらしく、小松さんの「慮人日記」を見ると、そこでは、鈴木貫太郎首相が「無駄死にはいかん」といった布告を全軍に出したということになっていたらしい。だが小松さんも記しているように、これは明らかにおかしい。当時の日本では、首相が軍に布告を出すことはありえない。



小松さんはこれを、米軍の謀略宣伝ではないか?もしそうなら、日本軍に巧みに戦闘を放棄させ、ジャングルに追い込んで自滅さす、実に手の込んだうまいやり方だと記しているが、氏自身、この身方にも半信半疑である。




きっかけは何かわからないが、こういう架空の”布告”なるものが自然発生的に出てくるのは、生への希求の表われであろう。
高木俊朗氏が、「恩寵のたばこ」という文章のなかで、厚生省の某氏の「小野田元少尉のいうような命令なんか、出てやせんよ」と言う言葉を記している。



私は以上の自分の体験から、この言葉を正しいと思う。だがそのことは、小野田さんが噓をついているという意味ではない。帝国陸軍とは、上記のように、自己の希求をも命令と受け取る世界だったというだけである。
小野田氏の存在はその生き証人といえる。





そこまではわかる。しかし、I少尉の言葉の後段のような考え方を生むきっかけとなる何かが、あったのであろうか。




「自分が命を縮めるだけ家族の命がのびる」という発想、この考え方で自己を支えて行く生き方は、いかなる”布告”にもその契機があったとは思えない。しかし当時の彼を、彼だけでなく多くの人を、最後の土壇場でなお支えていたものは、表現は違っても、実は「犠牲になって生きる」というこの考え方であった


私は永い間、この考え方を、家族主義的伝統に基づく日本的な自然発生的な考え方と見ていた。従ってフランクルの「愛と死」を読んだ時、これとよく似た一面をもつ考え方が、同じような考え方が、アウシュヴィッツの彼を支えていたことを知り、非常に驚いた



彼は、この収容所の中で、ガス室を前にし、自己の死を考えて苦しみに苦しむ。そして「犠牲という観点からだけ、苦しみに満ちた私の現存在が、耐え忍ぶことが可能に思われ」そこで彼は、神と一つの契約を結び「自分が苦しんだだけ、それだけ母が安らかに死ぬよう、自分の死が早かっただけ、母が末長く生きられるよう」と考えて、その苦痛から脱却するのである。



それはI少尉の「投げちゃいかん。無駄死にもいかん……オレたちが命を縮めれば、家族の命はそれだけのびるんじゃ」と、大きな共通点をもつ考え方のように思われた。


最後の最後では「人間は結局みな同じ」と言えそうに見える。そして、そう言える一面は確かにある。しかしアウシュヴィッツとかパラナンのジャングルとかいったもう逃げ場のない土壇場ですら、なお、両者には違う点がある。



フランクルはその考え方を、自己の主体的な意志に基づく神との契約によると考え、一方われわれは、上から来た「だれかの指示」と考え続けた__おそらくそういう「指示」はないのだが。



この差は決定的であろう。そしてここに「日本的ファシズム」の精神的な根があったのではないか。



「自分の発想と決断に基づく自分の意志」と考えることを拒否して、実質的に自らの意志で行いながら、それを上なる指示者に仮託し、いわば「聖旨を体して……」と考え、最後の最後まで「だれかの指示」と受け取らざるを得なかったところに_。



これが小野田氏を生き証人といった理由だが、もちろんジャングルでは以上のような思索はなかった。だが収容所に入ってから、小松さんも私もまた多くの人も、当時の自分たちの発想に、一種の「不思議」を感じていたことは否定できない_心理学者フランクルのように、それを、分析・叙述は出来なくとも。」

〇昔、まだ独り身だった頃、私は生きるのが下手なので、いつも、いつ死んでも良い、と考えていました。多分、いつでも逃げ出せば良い、と考えることで、辛い状況を想定することから逃げられると思っていたのだと思います。

でも、子どもが出来、子どもの未来を自分の運命の一部のように感じるようになってからは、もう、「いつ死んでも良い」と考えることは出来なくなりました。
子どもを放り出して逃げることは出来ない…。

そうなってからだったと思います。自分が苦しんだ分だけ、子どもが楽になるのなら…と思うようになったような気がします。