読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(最後の戦闘に残る悔い)

「翌十三日、朝十時ごろ。まだ撤収してこない彼を気にしながら、飯盒の中の籾殻だらけの飯を書き込んでいると、「バシッ」と鼻先を何かが通過した。「ありゃ」と私は呑気な声を出した。



次の瞬間、目の前のA上等兵が、パッと身を伏せると「少尉殿ッ、タマッ」と言った。私も慌てて伏せた。奇妙なことに、射撃はそれ一発だけである。
だが次に、ブルンブルンブルンブルンという観測機のいやな爆音がした。



「いよいよ来やがったか」と思った瞬間、ダダダッ、ダダダッ、というものすごい銃声。思わず銃をかまえたが、あの一発以外は音だけで、全然銃弾は飛んで来ない。「おかしい」と思った瞬間、アッと頭にひらめいた。「しまった。I少尉がやられた」。



反射的に私は叫んだ。「前へッ」。総計九名は、一列になって、姿勢を低くしながら、ジャングルの小道を小走りに走った。無我夢中だった。川を渡り、蛇行する川の第二の渡河点を渡った時、ピュッ、ピュッと数発の銃弾が身近をすぎた。




「しまった。敵はこちらの動きを知ってやがる。おびき出されたか?退路を断たれ、I少尉ともども全滅か?エエーかまうもんか、突っ込んでしまえ。もうたくさんだ、こんなことは」
_そんな考えが、瞬間、頭の中をさっと通り過ぎた。(略)




この弾幕を越えて、どうやって川を駆け渡るか。
「見殺しにはできない、絶対にできない」と内心で言いつつ、これを渡る方法がない。無理に駆け抜ければ、うまくいって半数は屍体になる。だがダダッダダダ……という前方の銃声は、救援を求める悲鳴のように聞こえてくる。




「もういい、かまわん、同じことだ、飛び出そう」_私はそう思い、右手の銃を持ち直すと、左手をあげてその合図とともに「前ヘッ」と叫ぼうとし、手を半ばあげ、うしろを振り返った。
その瞬間、私は異様なものを見た。それは目であった。目以外は、すべてがかすみ、何も見えない。八人の目は、食い入るように私にそそがれている。私の「前へッ」の声と左手の合図で、彼らは死なねばならない。その目、その目。私は一瞬声がつまり、左手はだらりと下がった。




次の瞬間すぐうしろの兵が叫んだ、「少尉殿ッ、敵ッ」水しぶきをあげて二つの人影が、左手の上流から下りてくる。彼らは弾着点を避けて、途中から岸にかけあがり、ジャングルのしげみをものともせず狂ったようにかきわけて走って来る。



敵ではなく、I少尉の部下であった。一人は胸部貫通銃創を負い、後ろから繃帯で結び、前を布切れで押さえながら、それでも駆けて来た。もう一人は擦過傷であった。



「少尉殿、……救援を、救援を。……隊長殿が言われました。山本のところへ行ってこい、あいつなら……きっと助けに来てくれる。あいつだけはきっと来てくれると…」
二人はI少尉に命じられ、家のうしろから川辺に抜け、水際の凹部銃弾をよけつつ、ここまでたどりついたのであった。




彼の言葉が合図であったかのように、ピタリと銃声はやみ、迫もとまり、観測機の爆音もしなくなった。兵士は反射的に飛び出そうとする。私はそれを押さえた。敵はすでに散開しなおして、ジャングルの出口に重機の照準を合わせているかもしれぬ。



砲撃停止は誘いのワナかもしれぬ。一瞬シーンとした静寂があった。「終わったな」_私は胸の中で呟いた。I少尉以下八名、全員がすでに死んでいるであろう。
私は負傷した二人をまず前哨まで送り、すぐ治療するように、二人の部下に命じた。負傷した二人は驚いて私の顔を見、「少尉殿ッ」と一言いうと、歯をむき出し、顔をゆがめ、人々を振り切り、川をかけ渡って、I少尉の方へ駆け出そうとした。



「お前がそんな男とは思わなかった。人でなしめ」_その顔はそう言っていた。だが私は、何やら自分でも不思議なくらい冷静、というよりむしろ冷淡であった。「まて」、私は二人にいった。「前哨まで下がれ」。だが二人は動かない。そこで私は向きをかえ別の部下を、ジャングルの奥のY自動車隊に走らせた_I少尉以下の全滅を伝えるために。




それから、むきなおって二人に言った。「慌てることはない。次はこちらの番だ。それまで負傷の手入をしておけ」。二人はうなだれて去った。「負傷の手入れ」という言葉は、後で考えると実にひどい言葉で、人と銃を区別していない。戦場はいつしか二つを同一視さす。私も明らかにそうなっていた。




以上が私の、戦闘とはいえない最後の戦闘であった。なぜ、平然としておられたか、なぜ、職業的平静さといったものを持っておられたか、今ではもうわからない。次は自分の番という意識か、たえず死や屍体に接する職業の人のように、他人の死に馴れたのか、人は、自己の死以外には、すべて馴れるものなのか_彼を見棄てたという精神的苦痛が襲ってきたのは、八月二十七日以降であった。



われわれは「八月十五日」を知らなかった。二十七日、降伏命令が来て、分哨は解散し、各兵はそれぞれの部隊に帰ることになった。
そのときある兵士が言った。「おかげさまで、生きて帰れます」と。その言葉は逆に嘲罵のように私にひびいた。私は顔をそむけ、手を振って、黙ったまま彼を去らせた。



「違う。オレが飛び出さなかったのはお前たちの「目」だ」と内心では思っていたが …。生死の岐路は、個人であれ民族であれ、結局、どこかに醒めた一点があったか、なかったか、だけの差であろう。それを「卑劣な正気」と言えば、そうかもしれぬが……。



内地の犠牲になる。自分が命を縮めればそれだけ家族の命がのびる。そう考え、そう考えるだけで自己を支えて、最後の最後まで元気だった彼は、結局、私の犠牲となり、自らの命を縮めて私の命をのばした。前の日に「オレが手を貸すから……」と言って、無理矢理にでも前哨まで引き揚げさせれば、彼も生きて内地の土を踏んだであろう。



それをしなかったことは永遠の痛恨であり、またそれをせずにさらに救出も打ち切ったことは、どう理屈をつけても、結局、生涯癒えることのない心の傷となった。
そしてそれは、年月とともに軽くならず、逆に重くなり、そのときの平静さが理解できなくなっていく。



常識はおそらく逆の解釈をするであろうが……。硫黄島の戦跡から不意に海に身を躍らせた人も、遠くは乃木大将の自殺も、時とともに重くなるこの重さに耐えられなくなったからであろう、と私は想像している。




同時に、日露戦争の尉官クラスが、その後に昇進して軍を掌握していた間は、軍の暴走がなかったという説にも、何となく首肯できる。近代戦における戦闘と戦場の死は、少なくとも一人間の生涯においては、それがどんな”好戦的な人”でも、二度と経験したくないものであろう。




「歴戦の臆病者はいるが、歴戦の勇士はいない」と私は前に記した。そして「慮人日記」の小松さんも、同趣旨のことを記している。だが「歴戦の臆病者」の世代は、いずれはこの世を去って行く。



そして問題はその後の「戦争を”劇画的にしか知らない勇者”の暴走」にあり、その予兆は、平和を叫ぶ言葉の背後に、すでに現れているように思われる。小野田元少尉帰還時の異常なブームにも、私はそれを感じた。」