読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織と自殺)

「余りに急激な変転は、現実への実感を失わせる。自分のことが他人事のようにしか思えない。
「こりゃきっと悪夢なのだ、こんなことがあるはずはない。目がさめたら自分の部屋で寝ていたのだ」と感ずる。本当にそう感じたことは、それまでも再三あったが、バガオの突破だけは、何年たっても現実感がわかず、戦場の仮睡でみた悪夢のように思える。



支隊長U少尉のところへその報告にやらされなかったら、私はこれを、いまなお悪夢だと信じ込んでいたかもしれない。



パラナン川の渡河点で、四人の兵士を十歩ほどの距離で横隊に並べ、その一人が綱の橋をもって、対岸にわたった。水は胸まであったが、流れは思ったほど急でなく、四十歩ほどの幅で、川底も固いことが確認できた。渡り終わると綱を引いて、「渡河可能」の合図をし、杭を打って綱の端を固定し、その杭に目印の火縄を結び付けると、合計五人は一列縦隊でバガオを目指した。



バガオを偵察し、そこに敵のいないことさえ確認すれば、砲車をひいてバガオ道を最大速度で走って大丈夫、この闇と火事の火光はわれわれの味方だという気がした。(略)




暗黒のバガオ道を索敵するよりこの方がはるかに確実、それを確認し、突破不能と判断したら、青木参謀の指示に従って回れ右をすればよい。「そうなりゃ、命令違反」と言われる恐れもない、と思うと、幾分気も軽くなった。(略)



E曹長の選抜してくれた四人は、優秀なベテランであった。彼らは一列で私のあとに続きつつ、二人が右前方と後方、他の二人は同じように左前方と後方を、それぞれ分担して警戒しつつ、灌木の点在する草原を姿勢を低くして足早に進んだ。暗闇に、納屋らしきものがすーっと視界に入ってまた消えて行く。



その数はしだいにふえ、火はますます近づき、燃え盛るさまや吹き出す煙が手に取るように見えて来た。私は合図をして四人をとめた。「おかしい、この燃え方は爆撃じゃない」私は内心で呟いた。考えてみれば爆撃のはずはない。爆撃なら昼間のはずだし、ニッパヤシの家が多い田舎の町は一瞬に吹き飛んで、もう焼け落ちているはず。(略)



判断がつかない。判断がつかない以上、バガオの町に入ってみるほかはない。だがそのときの私の感じは、九十九パーセント敵はいない、ただ万が一のため確認しておく、の程度であった。私たちは割合に気軽に町に近づいた。そして近づけば近づくほど火勢の方が気になり、注意はそちらに奪われた。



というのは、フィリピンの田舎のニッパハウスは、屋根だけでなく壁もニッパヤシの葉だから、実に派手に「油紙に火がついたように」一気に燃え上がるからである。その構造は、太い木の柱と桁で囲まれ四角い壁面に、目の粗い割竹の格子を組み、それに、ニッパヤシの葉を少しずつずらして籐で結び付けたような形、屋根もほぼ同じ構造で、通常床だけが板だが、貧しい家は床も竹であった。簡単にいえば、夏の海岸のヨシズ張りの脱衣所が古びたような感じである。


黒ずんだ枯葉の集積のような外観はすこぶる貧相で、「貧しさ」の宣伝写真には絶好の被写体だが、南方で生活するなら、何と言ってもこのニッパハウスが最快適であった。」