読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(still live, スティルリブ、スティルリブ…)

「命令は文字通りに朝令暮改であった。といってもそれは一面無理はなく、主導権は完全に先方に握られ、先方が思うがままに造り出す情勢に、こちらはただただ振り回されるという結果になっていたからである。



斬り込み隊派遣が不成功となると、今度は「待ち伏せ方式」となった。隘路の最も切り立った崖に横穴を掘り、そこにひそんで戦車を待ち、横合いからフトン爆雷をかかえて跳びつくという方式である。



そうなるともう観測機が旋回しようと、迫の雨がふってこようと、どうでもよくなった。否よくも悪くも、横穴から生きて出られないなら、同じことである。と言っても、人間はやはり食わねばならない。




私たちは横穴の中に足を投げ出してすわり、背を窟壁にもたれさせ、股で鉄帽をはさんで固定させ、それを臼にして籾を搗きつつ、近づく戦車を待った。しかし、まことに奇妙なことに戦車は一向にビタグを突破しようとしない。日課のように目の前まで来て、パラパラと射撃をしてまた下がって行く。慣れというのは変なもので、われわれはその鼻先で飯を炊いているのである。(略)



ただ夜中は火光がもれて危険、無煙だから昼間の方が安全なので、敵戦車が行動を起こすとこちらは飯を炊き始めるという妙なことになった。そんなことを繰り返していたある日、あっと気づいた時には、いつの間にか背後の盆地が米軍に占領され、米集めに夢中になっていた諸部隊は壊滅し、後ろから日本兵がビタグに逃げ込んできたのには驚いた。



司令部は行方不明だという。そこでわれわれもビタグを捨て、川づたいにパラナンの奥地へ逃れた。後にこのジャングル内で兵士たちは言った、「ビタグの横穴は良かったですな。昼間あったかい飯が食えて、夜寝られましたなあ」。



だが私は、夜になると時計の音に悩まされていた。しかし、それは、戦車への恐怖よりむしろ、バガオ突破の時のあの恐怖、屈辱の座における死への恐怖であった。(略)


なぜこんな奇妙なことが起ったのか。武装解除の日、われわれは、巨大な戦車輸送用のトレーラーに乗せられた。なぜこんな巨大な車両がサンホセ盆地のど真ん中にあるのか。


私たちが、米搗きと火薬による飯盒すいさんで日を送りつつ、少しずつ少しずつ用心深く前進・後退を繰り返す戦車を横穴で待っている間に、米軍はブルドーザーでジャングルを切り開き、これに鋼板を並べて、立派なハイウェイをつくり、ビタグの抵抗線を迂回して一気に背後の盆地に突入したわけである。



われわれの正面の戦車は結局、われわれを横穴とタコツボに封じ込めておくための陽動部隊だった。隘路の死守部隊より司令部や後方部隊が先に急襲され、「ビタグを死守してサンホセ盆地とそこの食糧を確保して長期持久を計る」という構想は、一瞬にして消し飛んだ。



と同時に、各部隊は無統制な「自由行動の盗奪集団」と化し、懲罰も責任も存在しない世界となった。そしてこの米軍の迂回が、私のスティルリブすなわち「まだ生きている」第三の理由であった。トレーラーの走る道から、かつてH中尉が歩いて行った稜線が見えた時、私はそう思った。(略)




習慣とは実に奇妙なもので、考えてみれば戦争が終わったその瞬間に、時計を腹部に抱いている必要はなかったはずである。そう思うと何か呪縛がとけたような気になり、何となく苦笑が湧き、気分が楽になった。私はそのまま寝てしまった。これが、本格的”収容所生活”の第一夜だったが、このときは、この生活が一年四カ月も続こうとは、夢にも考えていなかった。(略)




本収容所への移動は意外に早く、その日の午後に来た。続々と送られてくる後続の収容者がつかえていたのであろう。(略)


その晴れ間に、非番らしい米兵がやって来て、一カートンの煙草と二箱のレーションを両手で高くあげ、「トケーイ、トケーイ、ウォッチ、ウォッチ」と大声で言いつつ、陽気に我々の間を歩きまわった。その態度は率直で暗い影がなく、気持ちがよかった。


私は懐中時計を取り出すと、その紐を指にかけ、すわったまま、黙って高く手をあげた。彼は、目ざとくそれを見つけると、近寄って来て私の膝にどさりと煙草とレーションを投げ出し、私の指にかかった時計を手にすると、驚くべき早さで蓋をあけて中を見、何も言わずに立ち去った。



それ以後私は、時計を身につけたことがない。」