読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(言葉と秩序と暴力)

将官テーブルで食事をするのは、確かに気が重い。また、カッとなって陰口に等しい将官批判をしたことも事実である。しかし、現実問題として、あちこちと通勤して垣間見た他の収容所や現に自分の寝起きしている収容所と比べて、どの収容所が立派か、どこが一番「居心地がよいか」と問われれば、それはやはり将官収容所とその作業室になってしまう。



少なくともここには、無秩序も暴力もリンチも公然たる男色的夫婦(?)の存在も見られず、サングラスをかけてウス笑いを浮かべ、用心棒と女形の出らしい情夫(?)を従えて収容所内をのし歩く、暴力団長もいない。



一言でいえば、ここの環境は、上品で清潔で、とげとげしさがなく、秩序立っていた。一般収容所の空気は、こうではなかった。そしてその中にいて麻痺すれば余り感じないであろうことも、ここにいて将官収容所と比較すると、否応なしに強い嫌悪感を感じないわけにはいかなかった。(略)



従って”嫌悪感”ですんでいたわけだが、その後、戦犯容疑者として第四収容所に移され、そこに隣接した米軍設営工場の”通訳”になるに及んで、否応なく、この現実を全身で感じ、「やっぱり将官の方が立派なのか?」と考えないわけにはいかなくなった_もちろん抵抗はあったが。




この設営工場は捕虜の中から大工・建具職人・家具職人等を選抜して、米軍人家族の家具や家庭用品を造る工場で、” ”なしの本物の通訳はOさん、私はその助手ということになっていた。(略)



ある日、Oさんが席を立った隙に、私は、何気なくそのノートを開いて読み、あっと驚いた。それは、戦犯法廷に呼び出される覚悟をしていたらしいOさんの、法廷における宣誓口述書の草稿であった。目を走らせていくと、Oさんは戦時中、どこかの「抑留米英人収容所」の管理者だったらしい。



それは、たとえその人が善意の人であっても、今となって見れば、非常に危険な職責であった。ゴボーの支給が「木を食わせた」と言われ、味噌汁とタクアンの支給が、腐敗した豆スープと黄変し悪臭を放つ廃棄物の支給として、捕虜虐待の訴因となった等々という噂が収容所にあり、後で調べればその一部は事実だったからである。



夢中で目を走らせていると、いつのまにかOさんが帰って来ていた。私はおそらくバツの悪そうな顔で、あわててノートを閉じたのだと思う。Oさんは笑って、「読んでもいいですよ」と言ったが、そう言われるとかえって「では拝見します」とは言いにくい。(略)


Oさんはノートをかたわらに押しやると、われわれ「日本人捕虜」の状態は、何といっても余りに情けないと嘆じた。彼が収容した米英人は、絶対にこんな状態ではなかった。彼らはすぐさま、自分たちの手で立派な自治組織をつくり、それを自分たちで運営した。一体どうして、われわれにそれが出来ないのであろう、と



だが、私は内心で、Oさんの言葉に反発していた。当時の収容所には、日本内地ほどひどくないにしろ、「アメリカ人立派・日本人ダメ」的風潮もなくはなかった。もっともそれは、私が帰国した昭和二十二年当時の内地のように、昨日までの「鬼畜米英・現人神天皇」がそのまま裏返しになった「鬼畜日本軍・現人神マッカーサー」的状態ではなかったが、何しろ、収容所内の実情を見ていると、一種の劣等感を抱かざるを得なかったのも事実である。



しかし私は内心、「アメ公だって、収容されて食うや食わずの状態になりゃ同じことだろう。いま偉そうなツラをしていたって、結局は環境の差だけさ。人間は環境の動物さ。満期除隊となればみんな紳士になるのと同じで、あのびっくり伍長のアホウがわれわれより立派なわけがあるもんか」と思っていた。



ビックリ伍長とかビックリ兄弟とか言われていたのは、ピッカリという名の双生児の下士官、それが第四収容所の実質的な管理者だったが、どの面から見ても、日本軍の下士官より立派とは思えず、その知能指数はゼロ以下のマイナスではないかと思えるほどの男だった。



「ヤレヤレ、あれじゃ日本軍なら万年一等兵、どうしてあれで下士官になれたのか。それにしても、何であんなバカに負けたのか」
それがわれわれが日々にもらす嘆声だったからである。そして、それと似たり寄ったりの米兵はいくらでもおり、従って私は、収容所の秩序は全くひどいものだと思いつつも、Oさんの言葉を素直に受け取る気にはなれなかった。



しかし、Oさんの言ったことを、よくよく思い返してみれば、彼は、何もアメリカ人が派だと言ったのではない。彼らは、「秩序はつくるものだ」と考えているが、われわれはそうでない、という事実を指摘しただけである。



いわば彼らは、「家を建ててその中に住むように」、「自分たちで組織をつくり、秩序を立ててその中に住む」が、日本人にはそういう発想はないと言っただけであった。それは、その秩序の中に住む個人個人が、立派であるとかないとかということとは別問題なのだが、私にはそれがわからなかったのである。


そういうことがあってから三十年経った。私は偶然に三冊の本を読んだ。一つは今まで何回も引用した小松さんの「慮人日記」、もう一つは、イズラ・コーフィールドという一女性の日記からC・ルーカスという人が編集した「サント・トマスの虜囚たち」(日本訳名「私は日本軍に抑留されていた」双葉社)、もう一冊がアーネスト・ゴードンの「死の谷を過ぎて_クワイ川収容所」(音羽書房)という本、いずれも収容所の記録である。」