読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(言葉と秩序と暴力)


「いろいろ原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。



一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。



何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。



黙って一回撲られた方が楽なのである。(略)そして、表れ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変わらなかった。すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった。



人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない。そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実態は海軍の「精神棒」という言葉によく表れている。



日本軍は、言葉を奪った。その結果がカランバンに集約的に表れて不思議ではない。そこは暴力だけ。言葉らしく聞こえるものも、実態は動物のう「唸り声」「吠え声」に等しい威嚇だけである。


他人の言葉を奪えば自らの言葉を失う。従って出てくるのは、八紘一宇とか大東亜共栄圏とかいった、「吠え声」に等しい意味不明のスローガンだけである。(略)



これがさらに八紘一宇となれば、一体それが、具体的にどんな組織でどんな秩序なのか、言ってる本人にも不明である。こういうスローガンはヤクザが使う「仁義」という言葉と同じで、すでに原意なき音声であり、言葉を奪うことによって言葉を奪われた動物的暴力秩序が発する唸り声と吠え声にすぎない。



日本的ファシズムの形態を問われれば、私は「はじめに言葉なし」がその基本的形態で、それはヒトラーの雄弁とは別のものだと思う。彼のようなタイプの指導者は日本にはいなかった。



”解放者”日本軍が、なぜ、それ以前の植民地宗主国よりも嫌われたのか。それは動物的攻撃性があるだけで、具体的に、どういう組織でどんな秩序を立てるつもりなのか、言葉で説明することが誰にもできなかったからである。(略)



結局、日本軍は東アジアという広大な”カランバン”の動物的攻撃性的秩序に、現地人を巻き込んだだけであった。従って一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。(略)


そして私は、将官テーブルにつくまでは将官の秩序だけは、「トマリ木」ではないと思っていた。というのはその時の私は、まだ、秩序はその人間の優秀さできまると考え、冒頭で記したように抵抗を感じつつも「やっぱり将官の方が……」と思っていたからである。」



〇「一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。」となっていますが、もう一人、気の毒なのは、この日本で生きる「弱者」だと思います。今も「はじめに言葉なし」は続いています。

私の子供時代にも、「言いわけをするな!」は普通に頻繁に言われる叱り言葉でした。言い訳は悪いことだと思って育ちました。でも、大人になって、なぜ悪いのかわからなくなりました。

また、ある時、フランス人の父親が子供に一番繰り返しいう言葉は、「なぜそう思うのか、なぜそんなことをしたのか、きちんと言葉で説明しなさい」ということだと聞いた時、まさに「言いわけしなさい」と言っているのだと思い、ものの考え方の違いを感じました。


そして、ここで思い出したのが、あの「東洋的な見方」の言葉です。

「言葉に出すと、何もかも抽象化し概念化し、一般化する憂いがある。禅はこれを嫌う。それで禅は言葉に訴えることを避ける。

〇言葉にするには、努力や訓練が必要になります。
もともとは、単なる「動物」でしかないヒトが、「人工的に」「自然に反して」使うのが言葉だとしたら、間違ったりうまくいかなかったりしながら、練習しなければ出来るようにならないのが、言葉ではないかと思います。

言葉にすると「ズレ」てしまいます。。だから言葉に振り回されることを誡める「禅」は間違っていないと思うのですが、コミュニケーションには、言葉が必要だと思います。