読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織の名誉と信義)

「第三が部隊の名誉、特に、朝夕顔を合わせる部隊長の信頼を裏切りたくないという気持ちである。軍隊の表も裏も知り尽していた部隊長が、見て見ぬ振りをしているぐらいのことは私でもわかる。



そして「山本なら、絶対に口を割らん」と思っていることも明らかである。この暗黙の信義は破り得ない_第一、何もかもしゃべったら、部隊に帰って、部隊長のみならず全員に「合わす顔」がなくなるではないか。



それを思えば、撲られようが蹴られようが処罰されようが「知らぬ、存ぜぬ」で押し通すのが最も楽、何もかも行った時の、処罰でない”処罰”の方がよっぽど恐ろしい。第一、そんなことができるわけはない、部隊長以下グルになって何かをごまかしたとなっては”部隊の名誉”にかかわる。



動かぬ証拠をつきつけられれば「独断でやりました。部隊長は何も知っておられません」が精一杯ではないか。



第四が、ほかの部隊だってみんな何かをやってるではないか。なぜオレにだけこうウルサクとっつくのだ。問題にするのなら公平に問題にしてくれ、私の立場に立たされれば、だれだってこうせざるをえないではないか、と言った気持ちである。




おそらくは、少々”やりすぎ”で、黙認の範囲を超えていたということなのだろう。そしてだれよりも困っていたのは、ドラム缶の員数が合わなくなったT中尉だったのである。ウルサイ参謀が控えていたから、柄を描くのが唯一の趣味であった彼とて、この問題はウヤムヤに出来なかったのだろうと思う。彼には収容所であった。すまなかったという気持ちと、戦争は終わったのだからもう”時効”だろうという気持ちから、私は彼にすべてのカラクリを白状した。



彼はこのためよほどひどい目に会ったらしく、その瞬間血相をかえ、一瞬にして一年前にもどり「アレはやはりキサマかッ」と叫ぶと、私に撲りかかりそうになった。だが次の瞬間、ふっと我に帰ったらしく、沈黙して気分を沈めた後に行った。「砲兵隊の兵器係のヤツラは、全く一騎当千だったよ。



司令部に来りゃ何かカッサラって行ったなあ。しかし、あなたの部下のS軍曹もO伍長も、私心のない、からっとした、いい男だった……みんな死んだなあ」



この状態は、昔も今も変わっていないであろう。私は「ロッキード事件における丸紅」を見て、その組織内の原則は結局同じなのだなと思わざるを得なかった。また丸紅が特別な例外的存在とも思わなかった。


今ですらこの通り、まして戦時中は、ひとたび”名誉”となると、だれも事実を言わない、死んでも言わぬ。言わないのがあたりまえだが、しかし、言わなければ司令部は実態が把握できず判断を誤る。だが、たとえ判断を誤らしても”名誉”に関わることは言わない。そしてそのため上級司令部が失態をおかせば、ここでもまた”名誉”のため事実は言わぬ。


それがつもりつもって大本営に集約されて発表されれば、悪名高い大本営発表になる。この発表のうちどこまでが前記の”集約”、どこからが”作為”か、これは今ではわからなくなった問題だが、彼らが真相を把握したうえで、意識的・計画的に国民を欺くほどがの明晰さを持ち得なかったことは事実であろう。」


〇 政治家の中の一部の人々は、従軍慰安婦は無かった、南京大虐殺は無かった、と繰り返し繰り返し歴史を修正しようとしています。なんとか不名誉な事実はなかった事にしたいのでしょう。「不名誉」と感じるなら、そのようなことは最初からしない、という選択肢はないのでしょうか。

平然と不名誉なことをして、それを隠してなかったことにしようとする、というのは、単に「不名誉なことをする」という以上に恥ずかしいことだという感覚はないのでしょうか。

恥ずかしくて見ていられない。