読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(組織の名誉と信義)


「武藤参謀長の言葉は、一言でいえばこの原則「事実を口にせず、戦犯法廷の裁判長の判断を狂わせた上で死に、それによって組織の名誉を守れ」ということである。そして、この裁判長を上級指揮官とすれば、前記のように、それがそのまま帝国陸軍の実情であった。



”名誉”は正確な情報を伝達させず、指揮官の実体把握を妨げ、その判断を狂わせ、最終的には一国を破滅させた。だが破滅してもこの原則は変わらず、同じ原則で戦犯裁判に対処する。



このことは結局、敗戦もこれを清算せず、戦後にそのまま引き継がれた証拠であろう。従って公害企業などの例を見るまでもなく、また、前記の例だけでなく、この実態は戦後も変化がないし、これを批判する組織もその内部は結局は同じように思われる。



個人の名誉という考え方がなく、組織の名誉が絶対化すれば、常に、同じことの繰り返しとなるであろう。われわれはそれを覚悟しなければなるまい



だが、他の多くの人が「武藤訓示」と言われるこの”命令”に強い抵抗を感じていたのは、彼が参謀長だったという事実である。統帥権すなわち命令権という点からいえば、参謀はスタッフであり、従ってその長ではあっても、命令を下す権限はない。ところがないはずの権限を彼らは実質的にもっていた。「私物命令」はその表れの一つにすぎない。



しかし米軍はそれを知らないから名目的責任者だけが追及をうける。そこにまたこの”命令”だから抵抗を感じざるを得ない。それは「米軍は日本軍の参謀なるものの実態を知らなさすぎる」と、当時の戦犯容疑者収容所のほとんどすべての人が口にした言葉にも表れている。




実力者参謀が本当の「発令者」で司令官はその命令文の「代読者」にすぎぬ、一体なぜこういう状態になったのか。収容所でもそれが論じられたが、多くの人は、日露戦争の伝説的な「大山・児玉」の名コンビの模倣が、これを生み出したと言った。



確かに大山型を気取る司令官は多かった。だがその実態は全く別であった。
大山・児玉コンビは、児玉参謀長の方が大山軍司令官に完全に心理的に依存しており、そしてこの依存によって得た心のゆとりにより、戦場のすごいストレスを排除し、自由な発想で独創的な作戦プランを練り得た。(略)


「負け戰さになれば、わしが全責任をもって処理するから、安心して思う存分にやれ」という形で、児玉参謀長に心のゆとりを与え、大胆な独創的な発想を可能にしたわけである。(略)



前述した小松さんが「慮人日記」で記した例、女を山に連れ込む参謀に兵団長が一言も言えないという例、こういう兵団では、兵団長とは文字通りの「代読者」、横暴をきわめた指揮官は実は参謀なのである。従ってその「訓示」「指示」「指導」は結局命令に等しい。だが参謀は、名目的には指揮官ではないから一切責任は問われない。(略)



閣下たちは近づいて来た。私はのろのろと椅子から立った。武藤参謀長の姿と「軍の名誉のため黙って死ね」といった彼の「訓示」とは、私に、気後れを感じさせていた。砲の遺棄やら抗命やら、そういった事件のため終戦後に自決させられた将校の話などが、頭の中をかすめた。



武藤参謀長と私とは、たとえ帝国陸軍が厳存していても、指揮権の上では無関係である。とはいえ、師団長のM閣下はあきらかに「代読者」にすぎず、従ってどんな心理的影響を彼らか受けるかは、予測がつかない。



確かに戦争は終わった。帝国陸軍は壊滅した。しかし少なくとも当時の私の常識では、破産の後には清算があるはずであった。私は局外者でも傍観者でもない。大日本帝国陸軍の一少尉である。従って、要求されれば、少なくとも”清算人”_それがだれかわからぬにせよ_には、すべてを報告する義務があると思っていた。そして、その要求がないとは信じられないが_その要求に応じた場合の状況は、皆目、見当がつかない。それが気後れの原因であった。(略)



席に着くと同時に、四方八方から、私めがけて質問がとんできた。何やら私は、閣下たちの間で話題になっているらしかった。(略)



しかしその質問は、本気の質問ではなかった。一同の関心は明らかに、中央よりやや左に座っている武藤参謀長であった。(略)



食卓には不思議な秩序が支配していた。それは軍隊の階級順先任順秩序でもなく、命令系統でもなく、「心理的依存に基づくトマリ木の秩序」とでも言うべき感じの秩序であった。



「なるほど、これが実力者というものか、一体なぜ、彼は、このような支配力をもちうるのであろうか」。私は、終戦前と全く変わらぬ態度で、意外に詳しくかつ的確に私に今の仕事の内容を聞き出した武藤参謀長を見ながら、そして、全く異質とはいえ、同じようにおそらく戦前と変わらぬ落ち着いた態度であった阿部さんを連想し、この奇妙な共通点に驚きながら、「実力者」について考えていた。



一口に心理的依存といっても、その対象は必ずしも同じではない。戦局が悪化し、師団長クラスがノイローゼになると、たいていは、大言壮語して一方的に言いまくり、罵詈讒謗をあびせて暴力を振い、何やら”超能力的”雰囲気を振りまく詐欺師的人物に依存してしまう。



M閣下もそうだったが、これは軍人だけでなく、会社が倒産する時も同じ。また出版社は倒産しそうになると、必ずこういうタイプの著者に言いまくられてその人の原稿を掲載したr、本にしたりするから面白い



こういうとき、OL的立場にある者には、かえって、その詐欺師的人物の実態がよくわかるので、本人以外は、ほとんどみながみな「なぜあんな人物に……」と不思議がるのである。(略)



だが目の前にいる武藤参謀長は、どう見ても、今まで見慣れた、ありきたりのそのようなタイプではなかった。むしろ逆のような気がした。彼の持っていた異常な実力の背後にあるものは、そんなまやかしとは全く違う「生きながら死者の特権をもつ」という、帝国陸軍の基本的な姿勢そのものであり、それをそのまま持ち続けていたからであろう。



死者の籍に入って責任を免除され、そのうえ死者の特権を要求するなら、それは前に述べた将官たちと同じである。だがこういう「生ぐさ出家」的な生き方を生み出した考え方の基本は、むしろその逆だったのであり、その世界では、本気でそれを信じ、それで自己を規定した人間は、階級も組織も越えて、あらゆる意味の実力を獲得しうるのであった。その点で彼は、文字通りに本物の、帝国陸軍の体現者に見えた。」