読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(あとがき)


「(略)確かに追及らしきことも行われた。しかし追及するその人が、自分が戦争中何を信じ、何を言い、何を行ったかを忘れかつ棄却するための他者への追及は、追及という名の打ち切りにすぎない。


いまそれを批判することは、戦争中を批判すると同様にたやすい。だが私はいつも、その批判の横から、奇妙な”戦争中の顔”がこちらをのぞいていることに、気づかないわけにいかなかった。



最初にこれを強く感じたのは、辻政信の華々しい復活であった。確か六〇年安保の少し前と思うが、参院選における彼の街頭演説の現場を偶然目にし、その痛烈な騎士首相批判演説と実に見事な演技と、それに対してやんやの喝采を送り、次々と握手を求めている聴衆の姿を見た時であった。



なぜこれが可能なのか、なぜこれが常に通用するのか。なぜ彼が常に一つの「権威」として存続しうるのか。彼よりもむしろ、興奮し喝采し声援を送っている人々の姿に、私は、あの敗戦も克服し得なかった”何か”を感じた。


そして同じことは、大学騒動にも、横井さん・小野田さんの出現にも、連合赤軍のさまざまな事件にも、官庁の機構にも国鉄の組織にも、感じざるを得なかった。と同時に多くの人々が何かを錯覚しているように感じた。というのは、新聞雑誌は、横井さんの出現を戦前の異質の世界の出現として捉える一方、連合赤軍のリンチを戦前に考えられぬ戦後社会の異常が生み出した現象と断じたからである。(略)



簡単に言えば、日本軍の如く目前の何かを「片付けた」のであろうが、それは何かが本質的に「片づいた」ことではなく、変化を続ければすべてが永久に「片づく」わけでもない。



言葉を換えれば日章旗を「片付けて」赤旗を振ったとて、さらにその赤旗を「片付けて」他の旗を振ったとて、その外面的変化は、振っている人間の髪の毛一本をも変え得ないというとである。まして、内面的変化は到底期待できない。



それゆえ我々が内にもつ問題点は、その外面的変化の華々しさに関係なく、なんらの解明も解決もされずに、そのまま残っていて当然なのである。
外面的変化で自らを欺くことなく、冷たく自己を再把握しこれを統御することによって自らを変革さす、これが本当の変革であろうが、このことの困難さは、古来多くの文学に取り上げられ、ヘブル文学の旧約ではいわゆる「知恵文学」の主題の一つである。そしてこの困難さに耐え得た者だけが、未来に対処できるのであろう。



この恐怖から逃れるため、人々は自らの内に未来のシナリオを書き、「進歩」「必然」「流れ」等のさまざまの言葉で、これが確定済みであると自分で信じ込もうとしたり、既存の秩序の一端にとりつけば、それがエスカレーターの如く、確定した未来に安穏に自分を運んでくれると信じ込もうとしたりする。


そしてこれらは、別のように見えて、実は同じ発想のシナリオであった。それを如実に示しているのが、帝国陸軍青年将校であったろう。(略)



だが、過去の日本は、自らの描いたシナリオによって自ら破滅した。そして興味深いことに、これと同じ表現が本稿に引用した週刊朝日の記事で、赤軍派永田洋子への表現に使われている。



自己の持つ未知の未来への不安を、社会に拡散して解消しようという一つの逃避は、確かに何かを演じつつ破滅する道であろう。
人はいかにすればこの道から逃れ得てリアルでありうるか。その第一は、おそらく、いかにして自らを再把握するかということであろう。本書がその一助となり得れば、幸いである。



昭和五十一年十一月               山本七平  」


〇 「変化を続ければすべてが永久に「片づく」わけでもない。……その外面的変化は、振っている人間の髪の毛一本をも変え得ないということである。まして、内面的変化は到底期待できない。…」といかに私たちは変わることが出来ないか…ということについて、私自身のこととして、身につまされました。


昔から政府のやり方や社会のありかたについて、色々想うことはありました。でも、私も他の多くの人々と同様に、個人的にブツブツ文句を言ったり、批判めいたことを言ったりしても、それを何かの行動に結びつけて、例えば「市民運動」のようなことをしよう、思ったことは一度もありませんでした。

でも、あの3.11の原発事故に対するあれこれを見、知り、一番問題なのは、いわゆる「市民」「国民」なのだ…と思いました。私たちが変わる必要があるんだ、と思いました。


でも、それを私の周りの人々、夫、友人、兄弟、そして子供たちに言っても、
全員昔の私と同じ、色々想うけど、それを行動にしようとは思わない、
あなたがするのは、勝手だけれど、巻き込もうとしても無駄だし、自分にはそのつもりはない、という人ばかりでした。


ほんの少し前まで、私自身が同じようなタイプだったのだから、人にあれこれ言えた筋合いではないのですが、でも、ここで言われていることは、そのことだと思います。


例えばあれほど酷い「私物命令」で多くの兵士を自決させた辻政信になぜ、人々は喝采を送り声援を送っているのか、それは、その後ろにいる人々が、沈黙してそれを「通して」いるからです。


つまり、「沈黙している国民」がそのようなことを「可能にさせている」のです。
いろんな人がいるので、辻政信は、今後も次々と現れる。そして、それを支持する人も当然現れる。


でも、もし、心の内で、「そんなことは赦せない!」と思うだけでなく、声に出して、行動にして、「赦せない!」「そんなことはもう通用させない!」という声を大勢の声にしたら、そのようなことは、出来なくなるはずなのです。


でも、この国では、ほとんど多くの人が、沈黙したままでいる。
そこにどうしようもない問題があるのだと思いました。


朝ドラの「まんぷく」の中で、まんぺいさんは、本当に酷い目にあいました。
不当に逮捕され、課税され、追徴金も取られ、国家権力によって、やりたい放題のことをされました。もし、あそこで、新聞がお国のいうことを聞いて、まんぺいさんの不当逮捕を報道しなかったら、もし、国民がその記事を読んで、抗議のデモをしなかったら、多分、まんぺいさんは、救われないままだったと思います。


そして、何よりも、あのような弁護士が現れなかったら、そして、まんぺいさんを支える奥さんが居なかったら、ただ、一人で、苦しみ泣くしかなかった。


問題は、市民、国民が変わらなければならないということだと思うのですが、
でも、これは、本当に本当に、大変なことだと思います。
第一、体質的にそのようなことが出来るように育ってないのです。


自己主張や意見を言うなんて、「普通の人」はしないように育っています。
その体質に抗うようにして、生きるのは、本当にそれだけで疲れます。


でも、多分、そのようにしてでも、少しずつ私たち一人一人が変わらなければ、
本当の民主主義は手に入れられないのだと思います。