読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私はあなたの瞳の林檎

〇 舞城王太郎著 「私はあなたの瞳の林檎」を読みました。
この本も、「一下級将校……」を読んでいる合間に読みました。

「私はあなたの瞳の林檎」というフレーズは、「you are the apple of my eye」(あなたのことは目に入れても痛くないほど愛してる)から来ているらしいのですが、そんなイディオムがあったことすら全く記憶がありません。


中学、高校の頃の記憶ももうすっかり朧になってしまっております。
でも、この物語は、その頃の雰囲気、子供っぽいまっすぐさや、不器用さを持ちながら、恋をしている二人のことが描かれていて、なんだか懐かしいような気もちになります。

あの村下孝蔵の歌、「初恋」を聞いて感じるなつかしさに通じるものがあるような
気がしました。


「私はあなたの瞳の林檎」(初出 2012年9月)「ほにゃららサラダ」(2010年9月) 「僕が乗るべき遠くの列車」(書き下ろし)

「ほにゃららサラダ」は、才能豊かな「ほんもの」の人に気後れして、結局別れに至ってしまう「凡人」の物語、ということになるのでしょうけど、その話の展開の面白さというより、中で語られた言葉がとても印象的でした。

心に残った言葉をメモしておきたいと思います。






「「つか松原、絵を描きたいのか絵描きになりたいのかどっちなんだよ~~~」
とすっかりタメ口になった高橋くんが凄い本質的なところをついてくる。
「何でもそうだけどそれをしたい奴とそれをする人になりたい奴がいて、それをしたい奴の方が本物だよな」」



「「でもあいつのやってることも結局んとこうんこサラダだよな」
みたいに。
え________っ!


「ちょ、高槻くんそれ、その表現いいね」と高橋くんが笑ってる。「それ小説に使っていい?」
「いいよ。使いなよ。そんで皆に警告してやってくれよ。お前らいっちょまえな顔してるけどうんこサラダだぞって」



「それ具体的にはどういう意味?」
「まんまだよ。うんこのくせにサラダ気取りってこと」
「ああ……」



「それっぽいけどうんこ。小奇麗に整えられてるけどうんこ。食べられないどころか、すでに誰かの食べたものだし、栄養も全部抜き取られたカスの集まり。臭いし病気も持ってたり。それに生温い」」



「「え……でも無理。恥ずかしい」
「制作ってのは恥ずかしいもんだよ」
そうか。」






「すると私の中に急に、思いがけない幸福感がやってくる。嬉しい。嬉しい。嬉しい。この写真の中での私には芸術なんて頭にない。発表のための制作をやってるわけでもない。上手い写真を撮ろうとも考えてない。ただ楽しんでいる。面白い写真が撮れてることをただ喜んでいる。私すらいない。何も考えてないのだ。




そして私は、これまでの私がピンちゃん言うところの「理に落ちていた」んだと知る。つまり頭で考えてたのだ。本当は、もっと、何て言うか、写真だったらカメラで考えなきゃ駄目だんだ。



たぶん絵だったらもっと筆で考えなきゃ駄目なんだろう。(略)言葉だって同じで、頭で考えてるだけでは判ってないのだ。言葉だって理に落ちうるんだ。(略)




これまでの私は<芸術>だの<価値>だの<権威>だの、つまらない、頭で考えただけの言葉や概念にとらわれ過ぎていたのだ。何かを作るってのはそういうものじゃないんだ。作ってる手先で考えながら、楽しみ、夢中になってやることなんだ。



解放されたんだ、と私は実感する。これまでの<こんな美術なんて頑張ったってどうなるんだろう?>とか<私なんて何者にもなれるはずがない>とか<皆瞬発的にちょっと褒められるだけでどうせ数年したら忘れされるような、数カ月でさえ誰も得てないようなものを必死で作り続けてて虚しくないのだろうか?>とか、そういう重たいだけで意味のないしがらみから逃れられたんだ。



物を作るってのは、作り始めて始まって作り終わって完結するものなのだ。作ってることだけが大事で、他のことは本当に意味がない。(略)



「あはは。そうだよね。芸術だの何だの本気で言ってるうちはただのうんこだよ」」




「あの時は興奮していたし一度に起ったからはっきりわからなかったけど、あの夜も高槻くんは私の撮った写真を一段高い次元で芸術にしてみせたのだ。そして私はそうと気付かずにただ楽しんでいたのだ。



私たちは一緒に楽しんでなかった。すれ違っていたのに、お互い気付かなかったのだ。
私は愛されている?
私の何がいいのか判らないけど、確かにビンちゃんの言う通り私は高槻くんに特別扱いを受けている。(略)


でも私には無理だ。
だって相手が圧倒的すぎるもん。
本物なんだもん。
私なんかうんこサラダもいいとこなんだもん。」




「私はもっと私を信じなきゃいけない。
私自身を信じられないと、周りの人のことも信じられないのだ。
頑張るって高槻くんとも約束したのだ。もっとちゃんと信じよう。
私のやりたいことは、自分を信じられないうちはやれないことなのだ。」

〇 「表現者」の辛さは大変だろうな、と思います。私には、縁のない辛さですが、
でも、「制作は恥ずかしいもの」とか「自分を信じられないうちはやれない」とか「それをやる人になりたいのか、それをやりたいのか」という言葉は、普通に自分自身として生きようとしている人、みんなに共通の問題ではないかと思います。


例えば、たった一つの「意見」を言うことですら、「恥ずかしさ」と戦い、「自分を信じられなきゃ」言えないような気がします。

そして、ほとんどの人が、「独創的」であるよりは、人真似から始めて、やるしかないのでは?と凡人の私は思います。例えば、中島みゆき加山雄三の歌は、どれをとっても、圧倒的に中島みゆき加山雄三で、本物なのでしょう。

でも、そこに至ることができないシンガーソングライターもたくさんいて、
こればっかりは、しょうがないんじゃないのかなぁ、と思います。

一つひとつ身につまされました。


「僕の乗るべき遠くの列車」も、あれこれ思いながら読むことが出来て面白かったのですが、また次回にしたいと思います。