読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「3 法の理性説(自然法

「神の法」とトマス・アクィナス

法の理性説は、私がつけた名前なので、ふつうに通用する言い方ではありません。ふつうは「自然法思想」と言います。(略)



自然法の「自然」というのがなんなのかよくわからない。ここがポイントなのですが、それはともかく、「自然法」というのはキリスト教神学、スコラ哲学の用語であることを、あるときに発見しました。(略)



いったい世の中の法律には、三種類ある。まず「神の法」。次に「自然法」。それから「実定法」。実定法は制定法とも言いますが、人間が決めた法です。当時は国王が決めていましたから、国王の法とも言います。(略)



神の法から自然法

ここから先は、私の想像です。
(略)


人間は、理性というものを持っている。「神の法」のうち、人間の理性によって推測可能なものが「自然法」です。これは人間の理性、人間の本性(自然)に従っていますから、すべての社会に共通であるはずです。



ゲルマンのある部族でも、イングランドの別の部族でも、フランスでも、インドや中国でも、どこでも同じような規則、たとえば人殺しはいけないとか、財産は守りましょうとか、親は敬いましょうとか、それは共通している。




それは人間の理性がそうさせているのであって、「神の法」が実現しているということである。「神の法」がある証拠でもある。こうやって、人間の理性が見つけた法、それが「自然法」です。



でも実際、具体的法律には、いろいろ尾ひれがついているわけです。それが実定法です。その土地の風俗習慣が反映している。国王が適当に決めたのだから、国王の都合も入っているわけです。場合によると、王様が理性をもっていないために、「自然法」を踏みにじるような法律というものもあるかもしれない。




キリスト教との務めは、「神の法」に従うこと。そのためには、「自然法」に従うこと。「自然法」に従う限りで「実定法」に従うことです。理性のあるキリスト教徒が、とてもひどい、デタラメな法律を見つけた場合には、理性の法にはこう書いてありますよ、と国王にアドバイスする。それで国王が従わなかったら、困った問題になるけれども、その時は神のために祈りる、とか書いてあるんです。





人権思想はどこからきたのか

そして啓蒙思想の時代になります。
啓蒙思想の時代は、国家が教会の支配を脱し、世俗のものとなって、「神の法」がなくなってしまったのです。


神の法 → 自然法 → 実定法 の最初がなくなってしまったのだから、「自然法」が究極の根拠ということになります。そして人間の理性が、神の代わりに人間が、従うべき基準になります。



フランス革命のときにも、理性崇拝という考え方があったでしょう。神を追い出して、その代わりに理性を拝んだのです。理性を中心に社会を組織しようという運動が、フランス革命でした。



理性が生み出した「自然法」によって、実定法すなわち国王の法を、たとえば、フランス国王が発布した法律を批判する、ということが起ったのです。



へんな法律だから、やめてしまう。ついでにフランス国王にも辞めてもらう。これがフランス革命です。フランス革命が可能になるためには、「自然法」の考え方が必要なのです。そしてこれは、キリスト教徒だから可能なアイディアなのです。



これがうまくゆき、時間がたって、啓蒙思想は古くなったのですが、啓蒙思想のうち「自然法」の考え方は、いまも残っています。「人権」ですね。「人権」という言葉は、日本国憲法でも中心になる考え方ですが、「自然法」からきています。



こうした「人権」とか「正義」とかは、実在するのだろうか。
法の理性説によれば、理性が認識する対象として、「人権」とか「正義」とかは、客観的に実在します。それは神がつくったものであり、神は存在し、ゆえに「人権」や「正義」も存在する。



法のルール説から考えると、そうではない。これは近代法のルールであり、近代法のゲームなのです(ゲームについては、後で話します)。古代法や中世法や別の宗教は、別の法律の考え方をとっているし、それは可能である。



ある特定の宗教の、h壕率に関する考え方の中で、ある特定のバージョンが出て来た。そのルールに従っている人にとっては、そのルールの前提である、「人権」や「正義」が実在するように見えている。



しかしそれは、近代というゲームをしているからそう見えるだけであり、一歩外に出て見ると、そんなものはどこにも実在しません。_これが一番リアルな、現実に即した社会科学的な認識なのではないだろうか。


これが法のルールです。
そこで、法のルール説の代表である、ハートの法理論を次に見て見ましょう。」