「パリサイ派と律法
彼らはなぜ律法を重視するのか。
律法とは、英語の「聖書」を読むと「law」と書いてありますから、要するに法律のことです。ユダヤ人にとっての法律、すなわち、ユダヤ法のことだった。法律と訳せばいいのに、法律ではあまりに殺風景で、品格がないとでも思ったのでしょう、ひっくり反して律法と訳した。
それ以来、この訳語が定着していますが、これはユダヤ教の宗教法のことなのです。
ユダヤ教は非常に古い宗教なので、はじめは、部族制を基盤にしていた。神とのコミュニケーションを掌り、儀式を行うのは族長といって、年配のお爺さんです。一族を率いるリーダーは、祭祀を執り行う権限があった。羊や牛を犠牲にして、薪の上にくべたりして、その煙が天に昇っていくとか、そういう儀式を行ったのです。そのことによって神と交流する。
こうしたことは、世界中の古代宗教や未開宗教にあるもので、ユダヤ教もそういうものの一種でした。その意味では、たいへん原始的な信仰です。
このやり方は、遊牧生活をしている時にはいいのですが、都市に定住するようになると、部族制が崩れて来て、社会実体とだんだん合わなくなる。それでも、あちこちに祭壇や聖所が残っていた。この点は少し日本の神道と似ています。(略)
都市に生活している人々は、部族制なんてもう古い、神に対する信仰を、個々人が表現すべきである。(略)
これに対して、サドカイびとは、祭祀権を独占している。言ってみれば貴族階級でした。王権が確立した時代、族長たちの行う祭祀と別に、神殿が建設された。その神殿で、祭祀を行う権限を血縁で世襲しているのが彼らです。そしてエルサレムの神殿に居て、人々の寄付を募って、優雅に暮らしていた。
パリサイびとは、学校の先生みたいな存在で、特に豊かではありません。律法を守る為にはまず「聖書」(タナハ)を読みましょう、シナゴークという学校を作りましょう、そしてすべての人が「聖書」を読めるように勉強しましょう、そして正しい生活をりましょうというように、義務教育運動を始めたのです。
イエスは、ある意味パリサイ派の考え方を受け継ぎながら、犠牲の儀式も認めないし、法律を厳格に守ることの重要性も認めないという立場を打ち出したのです。これがイエスのユニークな点です。そしてキリスト教の性格をけっていづけました。
法律を守るというのは、人間の行為です。人間の行為によって救われようとするのは、神に対する服従が十分ではない。だいたい、いつも正しく行動するなんて、罪深い人間にできっこない。だからそんなことはやめよう。
法律を守ること自体は必ずしも悪いことではないが、心ならずも守れない人もいる。具体的に言うと、ローマ人に代わってローマの税金を集めるユダヤ人とか、経済的な理由のために、心ならずも売春を生業にしている人とか、そういう人たちが福音書にはたくさん出てくるわけです。そういう人たちこそ救われるべきだ、とイエスは言って、律法を守らない彼らに手を差し伸べる。
そのためには、律法を上回る価値がなければいけません。それは、律法を与えた神が、人間を救おうとしている「ほんとうの気持ち」(愛)である。
そのほうが律法より、あるかに大事ではないか、と言ったのです。それを言い過ぎたので、ユダヤ教の指導者たちに警戒されて、死刑を宣告され、磔になって死んでしまった。こういうふうになっています。
そして、彼は実は神の子であったのだ、という説が出てきます。イエスは、人間でありかつ神である。矛盾しているようですが、論争のすえ、こういう結論になった。
要するに神の独り子イエスが、人間になってこのようなメッセージを与え、そして犠牲になって、人間のために死んでしまった。神の子であるイエス・キリストをしんじれば神に救われる、こういう説が生まれたわけですね。こうなれば、ユダヤ教ではなくて、新しい別な宗教、キリスト教だと言ってよい。
イエスが神の子でないといけないのは、どうしてか。
ユダヤ教の律法は、神との契約でしたから、人間の勝手な都合でこれを取り払うことはできません。人間が嫌だと思っても、この律法を守っていく以外、神とつき合う道はないのです。
でも、イエスはそんなものは守らなくていいと言った。(略)
はじめ、キリスト教は弱者の宗教で、ふだんは、奴隷とか使用人として働きながら、日曜日にこっそり集まって会合を行う、というやり方だったのです。土曜日にはユダヤ教徒が集まっていますから、日曜日に集まるしかなかったわけですね。」
〇 イエスキリストは「救い主」と呼ばれていたと教えられました。
「救い主」…今、国を救ってくれる「救い主」を待ち望む気持ちがとてもよくわかります。