読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か


「連帯責任と宗教における個人主義

これを少し、ユダヤ教や仏教と比較してみましょう。ユダヤ教、そしてキリスト教は、たいへん個人主義的なのですが、その根本は、ユダヤ法が連帯責任の考え方をとらなかったという点にあります。



古代法としては、非常に珍しいことです。「エレミア書」から山本七平さんが引いておられたので私も引いてみますが(31章28~30節)、


「主は言われる。……「父がすっぱい葡萄を食べたので子どもの歯が浮く」とは言わない」
つまり父親の行為と子どもの行為は、なんの関係もないと言うわけです。これはたいへんドラスティックな考えです。


「…人はめいめい自分の罪で死ぬ」
とも書いてあります。子どもの罪で親が死んだり、親の罪で子供が死んだりすることを、主は望まない。主は、一人ひとりの行為の責任を、一人ひとりが取るということを望んでおられる。これはユダヤ教全体の思想というより、預言者エレミアの思想なんですけれども、ユダヤ教のなかにきちんと根づいておりますし、エレミアのこの考え方はイエスにかなり影響していると考えられ、キリスト教もこのベースの上にできています。



ですから行為責任は全部、個人ベースになるのです。これが一神教、徳にユダヤ教キリスト教の考え方です。
ここから近代の個人主義が出てくるわけです。自分のことに責任を負えばいいのであって、他の人の行為に責任を負う必要はないし、負わされることもない。



仏教の場合はどうでしょうか。日本に広まった仏教は一見、祖先崇拝のようになっていて、親の因果が子に報い、などと言いますが、仏教の論理から言えば、親の因果が子に報いることはありえません。親の因果が子に報いるというのは、仏教の論理ではないのです。これは日本的に解釈された、日本的仏教です。




本当の仏教の論理は、自分の前世の因果が自分に報いる。現世の自分の行為は現世で自分に報いるかも知れないが、報いきれない場合は、来世の自分に報いるわけです。親は関係ありません。親は死んでしまえば、いまごろ豚になってどこかで生まれているかも知れません。当然、子供にも関係ない。



ダルマというのは、法であり、輪廻であり、因果応報なんですけれども、この考え方は、現在自分が惨めな状態であるとすれば、親のせいでも誰のせいでもなく、それは自分のせいである。前世の自分の行為のせいであると解釈する、そういうフレームを持っているのです。



これは前近代的ですけれども、つまるところ、とことん個人主義的です。自分の行為だけが自分に関係がある、と言っているわけですから。連帯責任の考え方は、まったくありません。



よいでしょうか。仏教も、ユダヤ教も、キリスト教も、個人主義である。ユダヤ教は日本には伝わりませんけれども、仏教は伝わりました。仏教の論理を徹底すれば、日本も個人主義になれたはずです。そこを読み取らなかったわけです。


日本は、血縁共同体が希薄だったので、かわりに近隣共同体に連帯責任の考え方を取り入れ、五人組などの制度をつくりました。これが、個人主義的な考え方を大いに疎外したことは、言うまでもありません。




2 官僚制と律令制

武力を排した中国官僚制の歴史

中国の官僚制を日本の律令制と比べてみると、中国の官僚制にはいくつか特徴があります。まず、皇帝の権威。正当な統治者が一人だけいて、その統治者に絶対の服従を誓うという考え方でできています。



つぎに、文官の統治。文官は軍人ではなく、学力があり、試験をパスした人間、すなわち知識人です。彼らだけが、支配者の手足となって働く、官僚となる資格がある。そういうイデオロギーに、中国の官僚制はもとづいている。



こういう制度は宋の時代に完成したのですが、この文官に敵対した勢力は、三つあって、ひとつは貴族です。貴族は世襲ですから、本を読もうが読むまいが、家柄が良ければ子供がその地位を世襲して、支配階級になるという考えです。



唐の時代まで貴族はたくさんいたのです。中国は、この貴族を、千年がかりで打倒しました。儒教は貴族制度を目の敵にして、最終的に中国から一掃してしまった。


もうひとつは軍閥です。世の中が混乱するとすぐに各地にゲリラが出没して、英雄が地方に割拠するというのが、中国によくあるパターンです。武力による統治を、官僚たちは徹底的に嫌った。儒教も徹底的に嫌った。軍の勢力が強くなると、地方分権になり、中央の官僚機構が弱体化する。中国の知識人は、武力による統治を徹底的に嫌う、という特徴があります。



そこで科挙のシステムができました。科挙カンニングやえこひいきが出来ないので、親が誰でも関係ないということで、個人主義です。自分の学力によって地位をかちえる。そして試験の問題は、儒教の経典から出題される。



でも、これだと学力秀才だけが権限を独占してしまうので、裏口入学みたいな抜け道をこしらえた。それが宦官です。これはいかに科挙の試験が厳格に行われていたかを証明するものとも言えます。


宦官は、弾性器を切り取ってしまうわけですが、そうすると、後宮(皇帝とその妃たちの住居)に就職できます。そして、庭の掃除からスタートして、だんだんのし上がっていき、最後には皇帝の側近くに仕える最高の政治的権力を手に入れることができるわけです。



どうしてそんなリスクを冒すかというと、家が貧乏であろうと、試験の学力が低かろうと、とにかくチャンスが与えられるからです。皇帝にしてみると、宦官は子供がなく、一代限りなので、安心して仕事を任せられるという利点があった。これが中国の特徴です。



いっぽう日本の律令制は、天皇の権威と、貴族の統治でできていました。官僚制の目的は貴族を排除することだったのですが、日本では貴族を排除することに失敗しました。むしろ藤原氏が出るなど、ずっと貴族の統治が続きっぱなしでした。


これが中国と、たいへんに違う点です。逆に貴族の側から言うと、律令制、官僚制は、邪魔になる。そこで、これをだんだん空洞化させていく、というのが日本の歴史です。



そして何百年もの間に、国家機構の空洞化、私物化_これは荘園制のことです_が徐々に進んだ。要するに国有財産のネコババですが、その結果として、武家政権が出てくるわけです。このように中国とはまったく違った歴史をたどることになります。



支配者のための法

まとめとして中国の法観念の特質を整理しておくと、法というのは、中国的な観念では強制手段であるので、正しくない。もっと正しいものがあり、それは道徳である。こういう発想があります。日常の行為規範は、法ではなく、儒教的道徳にもとづくべきである。そして、分権的な傾向があり、法の支配を望ます、基層の共同体や日常の生活単位には、自治をん認めてほしい、自分たちに適当にやらせてほしい、と主張します。これは、今日の中国も、だいたいそうです。



法は、それにもかかわらず存在します。その法律を厳格に適用するか、やや甘めに適用するかは、支配者の裁量の問題になってきます。つまり政治の問題です。法律と政治がいつもリンクするわけです。そして、必ずしも法律は人民を保護しません。



法律は、支配者の都合に合わせた支配者の命令ですから、人民から言うと、法律は少ない方がいい。これは欧米の考え方とはたいへん違います。



そして人民は法律が嫌いで、あまり法律に関心がありません。法律よりも政治が優位あす。いくつか例を挙げると、英米法であれば法曹資格があって、それは権力から独立しています。けれども伝統中国では、官僚が裁判を行いますから、独立した法曹資格がありません。



法律の専門家がいないのです。だから、法が権力から人民を守ってくれるという感覚がない。法と実生活が分離しているという感覚が、中国の法システムの特徴だと思います。



日本人も、この感覚をほぼ受け継いでいます。官僚制は理解できなかったけれども、法律が支配者の命令であって、ないほうがいいという感覚は、よく理解できた。そういう感覚があるところに立憲君主制とか、民主主義を根付かせようとすると、いろんな問題が起こります。


イスラム世界が法律を継受するときにたいへんトラブりましたけれども、日本も法律を継受するときに大きな問題がある、と言えるのではないかと思います。」