読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「全員一致と「空気」の支配

日本の場合、こういうふうにはなっていません。日本でいちばん基本的なのは、村の慣行です。それがどういうものかというと、まず、全員参加ですべてを決めます。全員参加し、全員が合意して、何かが決まるわけです。


これはたいへん良さそうに見えますが、実際そのメンバーの身になって考えてみると、大変に反対しにくい。反対すると、お前のせいで決定できなかった、と皆に言われるわけですから、本当は反対なんだけど、と思いながら、つい反対するチャンスを逃してしまう。これが多数決であればfs、安心して反対できます。全員一致だと、むしろ反対ができない。



これが全員一致のもたらす効果なのですが、この効果を山本七平さんは「空気」と言っています。日本では空気が支配するわけです。ある雰囲気が生まれると、誰も反対できなくなってしまう。誰も明確に意思決定をしないのに、ずるずると物事が決まってしまう。



非常に重大な決定のときもそうです。戦争をするというときもそうで、だんだん戦争の空気が高まって来ると、総理大臣も空気には逆らえないと言って、戦争の決定をしてしまう。こういうことが起りうるのです。



空気が支配すると、会議は実質的な討議ができず、どんどん形式化していきます。会議が始まるときには、結論が決まっている。根回しができているわけです。会議の根回しをする会議がその前にあって、またその根回しの会議がその前にあって……というように、かなり下の実務者のレベルで実質的な意志決定が行われてしまう。



本来、意思決定の権限のない人びとが、実質的な決定を行なうわけですから、誰が責任をもって意思決定をしたのか、わからない仕組みになっている。



これを飯尾潤さんという政治学者は、「本尊秘仏化の法則」と言っています。日本では一番大事な会議ほど形式的になって、その前にすべてがきまってしまい、意思決定がどこで行われたのかは「秘仏化」ですから、決してわからないようになっているわけです。」


〇 あの「一下級将校の見た帝国陸軍」の中にもこんな文章がありました。

「この人たちの取り繕った威厳の奥にあるものが、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかったカガシと見えて来て、不思議ではなかった。彼らのほとんど全てが、実力者なるものに心理的に依存し、それに支配され、その決定を読み上げる「代読者」だったのだから、そしてそれなるがゆえに、唯一の関心事は「外面的威厳の維持」となった_そしてそういう世界では真の責任者が常に不在であって不思議ではない。

「この人たち」というのは、「閣下」と呼ばれる組織のトップの人々。
でも、実質的には「決定を読み上げるたんなる代読者だった」ということです。

その最たるものが、天皇なのでしょう。多くの人が「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んで行った。でも、実質的な責任が天皇にあるのか?となると、どうもそうではないらしい。一体なぜこんなことが起るのか。

責任者の立場の人は、実質的には意思決定をしていない、と責任は取らない。
それでいながら、実質的に意思決定をした人間は、本来は責任者ではない、と責任は取らない。誰も責任は取らない。おかしすぎる。


誰も責任を追及されないようにするために、このような姑息な手段を取っている、と言われてもしょうがないと思います。

もっとも、「現行犯」並みに、言い逃れが無理に見える不祥事でさえ、平然とないことにする安倍政権の人々やその人々を守っているマスコミや財界の人々を見ていると、もう「姑息」な手段さえ使わない、あからさまに恥知らずなやり方で社会のルールを破壊してまでも、保身を図っている、と見えます。